第五十七話 帰ってきた弟子に、親方は土産より先に手を洗わせた
氷風城行きの灰尾車は、セレノ渡りを出てから三度止まった。
一度目は車輪の点検。
二度目は、赤曜側から下りてきた商隊へ道を譲るため。
三度目は、御者が昼食の干し肉を荷台へ置き忘れたからだった。
「三度目は運行記録に書くんですか」
尽が聞くと、御者のカイルは前を向いたまま答えた。
「書くな。俺の給金が減る」
「忘れ物による臨時停車」
「書くなら、せめて荷重再確認にしろ」
尽は帳面へそう書いた。
ただし括弧の中に、干し肉、と付け足した。
カイルが振り返った時には、もう帳面を閉じていた。
白羽境線を離れるにつれ、空の赤は薄くなった。消えるわけではない。赤曜の光が氷雲に砕かれ、灰色の帯になって車窓へ流れていく。
遠くには碧曜も見えた。
二つの太陽の間には、一本の境界線などない。赤みを帯びた雪原があり、その先に紫色の岩場があり、さらに向こうで影が青緑へ沈んでいく。気候も同じだった。暖気と冷気は壁のようにぶつからず、谷や尾根を奪い合いながら、長い距離をかけて混ざっていた。
尽は膝の上で、羽環堂から受け取った木枠を押さえた。
風見枠は、車内へ入り込む細い風で揺れている。魔法ではない。羽の角度と軸の摩擦だけで動く。セレノ渡りでは最後まで認証を取れなかったが、壊れた警報網を調べた記録と一緒に、試作一号として持ち帰る許可が出た。
途中の中継所で、人族商人が木枠を見た。
「飛行具か」
「風向計です」
「飛ばないのか」
「飛びません」
商人は露骨に興味を失った。
その隣にいた魔族の荷役人は、軸受けを覗き込んだ。
「油を差さずに動くのか」
「寒い場所では油が固まるので、羽骨の薄片を挟んであります」
「それなら碧暮の鉱道でも使えるな」
同じ道具を見て、欲しがる理由が違う。
尽はそれも帳面へ書いた。
氷風城へ着いたのは、出発からいくつかの曜刻を越えた頃だった。
大隧道の風圧扉が開く。
乾いた金属音。
熱交換塔から落ちる水。
鉱車の警笛。
赤曜側と碧曜側の商人が、同じ通路で互いの荷車を罵る声。
長く離れていたわけではない。それでも、尽には妙に懐かしかった。
オルドの工房は、出た時と同じ場所にあった。
看板は傾いたまま。
入口には、修理待ちの鉱灯が七つ。
そのうち二つには、出発前に尽が付けた白い紐が残っている。
扉を開けると、奥から金槌が飛んできた。
尽は反射的に首を傾けた。金槌は耳の横を通り、入口脇の革袋へきれいに収まった。
「避けるな」
炉の前にいたオルドが言った。
「当たったら危ないでしょう」
「当てる腕があると思うか」
「今、袋に入りましたけど」
オルドは鼻を鳴らした。
再会の挨拶はそれで終わった。
尽が木枠を見せようとすると、親方は手を上げた。
「先に洗え」
「木枠をですか」
「お前だ。白羽の鳥粉と国境駅の消毒粉を、そのまま炉へ持ち込むな」
尽は自分の袖を見た。白い羽粉が縫い目に入り、靴底には赤縁の細砂が固まっている。
工房の裏で湯を使い、上着を叩き、工具袋の外側まで拭いた。オルドはその間に受領札と貸出札を読んでいた。
戻ると、木枠はすでに分解台へ載せられていた。
「認証は」
「まだです」
「公道へ出したか」
「出していません」
「なら、よく持って帰った」
褒められたのかと思ったが、オルドは次の瞬間、軸を指で回した。
「ここ、削りすぎだ」
「弱風でも動くように」
「砂が一粒入れば振れる。白羽は羽粉が多い。氷風城は鉄粉が多い。場所が変われば故障も変わる」
尽は反論せず、試験記録を出した。
弱風、中風、強風。
持続風、横風、雨膜は未試験。
冷降流警報の際、連絡板の整理に使った観測項目。
オルドは途中から椅子へ座った。文字を追いながら、時々、髭の先をひねる。
「氷背獣を一頭も倒してないな」
「倒す依頼ではありませんでした」
「町を守った英雄にもなってない」
「連絡所から出ていません」
「よし」
今度こそ、褒められたらしい。
オルドは記録の最後に自分の印を押した。
「見えたことと、聞いたことを分けた。分からん物を勝手に埋めなかった。工具の使い方より先に覚えろと言ったことを、少しは覚えたな」
「少しだけですか」
「全部覚えた顔をする弟子は、炉へ近づけん」
夕方、工房の職人たちが戻ってきた。
荷下ろし場の修理に出ていた者。
地下水路の弁を替えていた者。
赤曜側の宿で湯沸かし器を直していた者。
尽の顔を見ると、誰も感動的な言葉は口にしなかった。
「白羽の菓子は」
「買ってません」
「役に立たん弟子だ」
「土産は風見枠です」
「食えるのか」
「鉄なら少し」
その日の夕食は、豆と根菜を煮た濃い汁だった。尽は白羽境線で覚えた食事札の書き方を思い出し、鍋の横へ人数を記そうとした。
職人の一人が木札を奪った。
「ここでは早い者が二杯だ」
「それで毎回足りなくなるんでしょう」
「足りなくなったら水を入れる」
「味が薄くなる」
「塩を入れる」
「塩代が増える」
オルドが鍋の蓋で尽の頭を軽く叩いた。
「帰った日くらい、黙って食え」
尽は二杯食べた。
食後、寝台へ戻ろうとしたところで、オルドに呼び止められた。
分解台の上に、三枚の紙が並んでいる。
一枚はセレノ渡りから届いた評価書。
一枚は氷風城の弟子滞在札。
最後の一枚は、赤曜側の教育機関をまとめた案内だった。
「人族の学校を探してたな」
「魔法を学べる場所があれば」
「お前はまだ火花一つ、自分で出せん」
「だから行くんです」
オルドは案内の端を爪で押さえた。
白羽自由諸邦の基礎講習。
ソラヴェイン帝国の認定学院。
赤縁各地の法具職人組合。
どれも入学条件が違う。国籍、推薦、魔力測定、授業料。尽には国籍がない。推薦はオルドが書けるが、矮人中立国の工房推薦を人族学院がどこまで認めるか分からない。
「まず赤曜側の領事所で、短期修学札を取る」とオルド。「その後、白羽の基礎講習へ戻るか、ソラヴェインの外部試験を受ける」
「ソラヴェインへ行きます」
答えが早すぎて、オルドが目を細めた。
「理由は」
「一番、資料が多い」
「授業料も一番高い」
尽は黙った。
「そこを見てなかったな」
「今、見ました」
オルドは机の下から、丸めた地図を出した。
レムリアの交易路図だった。地球の地図と違い、上に北があるわけではない。中央に天脊氷環が太い白線で描かれ、赤曜側が金、碧曜側が黒、移行帯が紫で塗られている。
地図の端には矢印が二つあった。
〈赤曜が高い時の上〉。
〈碧曜が高い時の上〉。
尽は地図を回した。
文字が逆さになった。
もう一度回す。
今度は交易路の番号が読みにくい。
「面倒ですね」
「空に北と書いてないからな」
オルドは赤曜側の道を太い指でなぞった。
「領事所は第三環門。その先の金札路。明後日、赤曜側へ帰る香料商隊が出る。護衛付きだ。お前の修理仕事を旅費に替える話をしてある」
「ありがとうございます」
「礼は、着いてから言え」
地図、旅札、商隊の集合場所を書いた荷札。
尽は三つを重ね、工具袋へ入れた。
その夜、寝台で地図をもう一度開いた。
赤曜側を上にする。
金札路が右上へ伸びる。
地球の地図なら、右上は北東だ。
だから集合場所も、中央広場の北東側だと思った。
尽は荷札に描かれた三日月形の門印を見た。
工房から見て右。
大隧道へ向かって上。
合っている。
そう判断して地図を畳んだ。
氷風城では、赤曜側の門を太陽門と呼ぶ。
碧曜側の門を影門と呼ぶ。
けれど、荷札の三日月は門の名前ではなかった。
夜間でも見分けられるよう、碧暮行き商隊へ付ける運行印だった。
尽がそれを知るのは、明後日の出発後になる。




