第五十五話 見えた三頭を、九頭にしない
警戒鐘が鳴ってから半刻で、氷背獣の報告は九頭になった。
西牧塔から三頭。
北枝塔から二頭。
外環の古い畜舎で一頭。
赤石坂で三頭。
全部を足せば九頭。
だが、同じ獣が移動しているなら九頭ではない。
逆に、尾根の向こうに別群がいれば、九頭より多い可能性もある。
羽環堂の連絡板へ、ミレナは数字だけを書くことを禁じた。
〈時刻〉。
〈場所〉。
〈進行方向〉。
〈個体の特徴〉。
〈目視者〉。
〈直接目視/足跡/伝聞〉。
尽は境站図の横へ、六列の表を引いた。
西牧塔の三頭は、赤曜側へ進んでいる。
先頭は背板の右端が欠けた大型。
二頭目は小型。
三頭目は左後脚を少し引く。
北枝塔の二頭は、南東へ。
一頭は右背板欠け。
もう一頭は小型。
時刻差は、砂時計一つ分。
西牧塔から北枝塔まで、成獣なら移動できる。
「同じ二頭の可能性」と尽が書く。
「同じだ、と書くな」とミレナ。
「はい。特徴一致、移動可能」
古畜舎の一頭は、小型。
北枝塔から見えた小型と同じかもしれない。
だが目視者は、背の中央に黒い筋があったと言う。
北枝塔の記録には色がない。
見えなかったのか。
記録し忘れたのか。
別個体なのか。
まだ分からない。
赤石坂の三頭は伝聞だった。
報告札を持ってきた少年は、自分では見ていない。
外環の石工が叫び、その声を路上商人が聞き、少年へ伝えた。
三段の伝言で、時刻も個体特徴も落ちている。
尽は消さずに、欄を薄灰で囲んだ。
〈未確認伝聞〉。
数へ入れない。
無かったことにもしない。
次の斥候報告で、右背板欠けの大型が古畜舎の北へ現れた。
その後ろに黒筋の小型。
さらに、左後脚を引く個体。
西牧塔の三頭と特徴が繋がる。
ところが北枝塔の高所監視が、尾根際に別の成獣二頭を見つけた。
一頭は両肩の氷板が白く長い。
もう一頭は右角が短い。
この二頭は、最初の三頭と同じ時刻に別方向へいる。
重複できない。
確認できた最少数は五頭になった。
見えていない尾根裏は、依然不明。
「九から五に減った」とカイルが言う。
「報告数が整理された」と尽。「獣が四頭消えたわけじゃない」
表の数字は、現実そのものではない。
何をどう見たかを、今の範囲でまとめただけだ。
そこへ古畜舎から赤札が来た。
〈小型一、内柵へ侵入。大型一、外柵接触。牧人退避未了。〉
ミレナの顔が変わる。
古畜舎は今、主な牧獣舎として使われていない。
だが冬用の塩塊と乾草が残っている。
見回りの牧人が二人。
冷降流で戸が歪み、一人は出た。
もう一人は内側の飼料庫へ退避している。
小型の氷背獣が、壊れた柵の間へ入った。
後を追った大型が、狭い入口で肩の氷板を引っ掛けている。
護る成獣と、閉じ込められた幼獣。
外から攻撃すれば、大型は畜舎側へ突っ込む。
風術で吹き飛ばせば、飼料庫ごと壊す危険がある。
連絡所へ来た女斥候――名をレネアといった――が、畜舎図を見る。
「塩を食べに来た。幼い方が先に入ったんだろう」
氷背獣は肉も食べる。
だがこの季節、背板を作るため塩分を求め、山裾の岩や牧塩を舐めることがある。
「塩塊はどこですか」と尽。
「北倉」と牧人の退避札。
尽は古畜舎の物品台帳を開いた。
北倉、塩塊十八。
南小屋、古い誘導橇一。
東柵、手動開放索。
「東柵を開けて、塩を外へ出せますか」
「風下へ置けば」とレネア。「だが人が近づけば母獣が来る」
「人が最後まで引かない方法は?」
尽が思い浮かべたのは遠隔操作ではない。
長い索。
傾いた橇。
結びを一つ外せば、塩だけが滑る仕組み。
ただし地面の傾きと氷背獣の習性は、尽には分からない。
レネアと石工が図を直す。
塩を置く場所は東ではなく南東。
東は冷風が巻き、匂いが畜舎へ戻る。
南東なら風が山側へ抜ける。
橇索は一系統では危ない。
引索と、途中で切り離す解放索を分ける。
設計は、その場の知識を持つ者が決めた。
運ぶのはカイルの灰尾車。
塩塊六。
温砂袋二。
長索三。
現地手前の石壁まで。
そこから先は、地上の路守が風除盾を持って進む。
飛行輪の若者二人は低空の伝令。
攻撃役ではない。
空から獣を煽らず、風上へ出ず、合図を一つずつ運ぶ。
もう一人の若者は、昨日の競演で銀箔車を操った青年だった。
名をファルクという。
彼は高空から畜舎を見たいと申し出た。
レネアは却下した。
「冷降流の境で銀箔が光る。獣の目を引く」
ファルクは銀箔羽を外そうとした。
「外せば飛べます」
「今日初めて外した翼で、乱流へ入るのか」
昨日のカイルと同じだった。
変更するなら試験が要る。
ファルクは飛ぶのを諦め、町側の綱引き班へ入った。
格好のいい役ではない。
それでも、必要な役だった。
現地から一つ目の合図。
牧人、飼料庫内で応答。
怪我なし。
二つ目。
東柵手動索、作動。
開口、獣一頭分。
三つ目。
誘導橇、南東斜面へ設置。
尽は連絡板へ時刻を書く。
そこへ別の伝令が飛び込んだ。
「北の二頭、古畜舎へ向きを変えた!」
レネアが窓外の風旗を見る。
「角笛は?」
「二度、鳴らしました」
北の二頭は、警戒角笛の後に進路を変えている。
最初の三頭も、運搬組合の低い角笛が鳴った後、畜舎側へ寄った。
角笛が呼んだとは決められない。
塩の匂いを追っただけかもしれない。
だが、氷背獣の低い呼び声と音域が近いという古い猟師記録があった。
危険の最中に、鳴らして確かめる試験はできない。
ミレナは外環の角笛を止めた。
町内連絡は、高い金属板の三音へ切り替える。
〈誘引候補。因果未確認〉。
尽はそのまま書いた。
四つ目の合図。
塩橇、解放。
南東へ滑走。
畜舎内の幼獣が動いた。
黒筋の背が、壊れた柵の向こうへ出る。
大型が身を捩る。
肩板が木柵を折った。
風除盾が一枚、跳ね飛ばされる。
路守は前へ出なかった。
決めた退避線まで下がる。
風術師三人が、獣へ直接風を撃たず、畜舎と退避路の間へ斜めの風壁を作る。
押し返す壁ではない。
突進の向きを、塩橇側へずらすための面。
大型は幼獣の後を追い、風壁へ肩を当てた。
一枚目が裂ける。
二枚目が持つ。
三枚目は地面近くを閉じる。
幼獣が塩へ着く。
大型も畜舎から抜けた。
その間に、飼料庫の牧人が東柵から救出される。
低空伝令が白布を振った。
〈人員退避完了〉。
そこで初めて、路守は畜舎を捨てた。
建物を守るために人を残さない。
塩を舐めた二頭は、すぐ山へ戻らなかった。
冷風の中でしばらく円を描く。
北から来た二頭が合流する。
右背板欠け。
両肩の白板。
短い右角。
黒筋の幼獣。
左後脚を引く個体。
五頭が同じ場所へ揃った。
これで最少五頭は、直接目視で確認された。
九頭ではなかった。
五頭だけとも、まだ言えない。
風術師たちは塩橇から町側へ風を送らないよう、南東の流れを保つ。
氷背獣の群れは、やがて塩塊を押しながら牧道の外へ離れた。
討ち取った獣はいない。
壊れた柵が二枚。
裂けた風膜一枚。
打撲した路守一人。
牧人二人、生存。
町へ侵入、なし。
打撲した路守は診療所へ運ばれた。歩けるから軽傷、と現場では決めない。盾に残った肩板の擦過痕、倒れた方向、意識の有無を診療札へ添える。風壁を維持した三人にも、指先の震えと魔力消耗の確認が入った。
畜舎を守れなかったことを責める声は出なかった。退避線を越えず、建物より人を先にした結果として、損壊を記録する。
ファルクは綱引き班で手の皮を剥いた。
カイルは温水筒の受領印を全部持ち帰った。
尽は連絡所から一歩も外へ出なかった。
それでも記録板には、最初の九という数字が細い線で残っていた。
消してはいない。
横へ、こう書き足した。
〈報告件数九。重複整理後、同時目視最少五。尾根裏未確認。〉
数字を小さくすることが、安心ではない。
数字が何を数えたのかを残すことが、次の警戒へ繋がる。
その日の赤曜は、白い氷粉の向こうで少し滲んでいた。




