第五十二話 羽片一枚は、空を飛んだことにならない
セレノ渡りへ基礎魔法教師が来るのは、二潮に一度だった。
教師は魔法学院の大講師ではない。
境站、宿、運搬組合を巡り、生活術と初歩感知を教える巡回教師。
名をアーレンという。
翼を持たない人間の男性だった。
年齢は四十前後。
灰色の外套に、大小の羽片を入れた細長い箱を背負っている。
「羽族の町で、人間が風魔法を教えるんですか」
尽が尋ねると、アーレンは箱を下ろした。
「翼の動かし方は教えない。風圧の読み方を教える」
羽族の飛行教師は別にいる。
翼角。
羽列。
筋力。
空中姿勢。
それを翼のない者が教えるべきではない。
一方、風圧札、帆、換気口、荷紐は種族を問わず使う。
だからアーレンの生徒には、羽族、人間、矮人、角族が混じっていた。
尽は氷風城とセレヌ門の訓練記録を全部見せた。
無反応。
単発白点。
微弱白線。
自然呼吸2/8。
固定呼吸3/8。
固定呼吸と肩部脱力4/8。
温度変化なし。
水移動なし。
灯粉発光なし。
戒指は試験から離す。
アーレンは最後まで読み、記録板を返した。
「ここでは、この数字を続きとして足さない」
「どうしてですか」
「板が違う。赤曜光が強い。風が常に動く。私の測り方も違う」
過去の記録は、参考。
赤縁での基準は、別に作る。
最初の課題は、魔力を出すことではなかった。
目を閉じる。
手の甲へ、四方向から弱い風を当てる。
どこから来たかを答える。
魔法なし。
感覚だけ。
一回目、右。
正解。
二回目、左前。
尽は左と答えた。
三回目、上。
上と答える。
八回中、六回正解。
羽族の子供は八回全部。
矮人の女性は五回。
角族の老人は七回。
「魔法の才能ですか」と尽。
「皮膚感覚と経験」とアーレン。「まず、魔法で増幅する前の入力を知る」
次に、同じ風を薄い羽片へ当てる。
白い羽片。
黒い羽片。
透明な膜羽。
白は軽く動く。
黒は重く、遅れる。
膜羽は正面風へ強く、横風ではねじれる。
見た目の華やかさではなく、反応を記録する。
「これを浮かせるんですか」
「今日は違う。落ち方を見る」
三枚を同じ高さから落とす。
赤曜の上昇気流が入ると、白羽だけ横へ流れた。
窓を閉める。
今度は膜羽が最後に着く。
床近くの換気溝を止める。
黒羽の回転が変わる。
室内でも、風は一つではない。
「無風にできますか」
「完全には難しい。呼吸も熱も風を作る」
尽は、落下試験の立つ位置を床へ印した。
人が近づけば結果が変わる。
次の課題で、初めて低能感応板を使った。
氷風城の無色板とは違う。
中央に薄い羽片があり、本人の入力があれば、羽片の傾きとして示す。
風そのものでも動くため、透明な覆いを被せる。
戒指は、教室入口の封箱。
尽から三歩。
番号を記録する。
自然呼吸、四回。
固定呼吸、四回。
肩部脱力、四回。
今日は基準作りなので、十二回だけ。
自然呼吸。
一回目、なし。
二回目、羽片が針半分動く。
三回目と四回目、なし。
固定呼吸。
四回とも、なし。
肩部脱力。
二回目だけ、針半分。
合計二回。
氷風城のように2、3、4と増えない。
白線も出ない。
板が違うから、直接比較できない。
「赤曜では弱くなった?」
「そうかもしれない。感応方式が違うだけかもしれない。昨日の疲れかもしれない」
アーレンは、〈赤縁羽片板基準・十二回中二回微動〉とだけ書いた。
そこでアーレンは、同じ覆いの中へ空の手袋を置いた。
尽の手は入れない。
外から同じ位置へ腕だけを近づける。
羽片が、わずかに手袋側へ傾いた。
「魔力?」
「手袋は空だ」
人体の熱で、覆い内の空気が動いた可能性がある。
完全密閉ではない。下部に圧を逃がす細穴がある。
尽が手を近づけるだけでも、温められた空気が上がり、羽片を動かす。
次に、厚い断熱板を手と覆いの間へ置く。
四回。
微動なし。
だが試行数が少ない。
熱流が二回の候補反応を全部説明するかは分からない。
「白線も、体温ですか」
「白線板は別の仕組みだ。ここから答えを移すな」
同じ尽の手でも、測定器が違えば誤差の入り方も違う。
アーレンは赤縁基準札へ、〈人体熱流の影響候補。次回、断熱板あり/なしを交互に試験〉と加えた。
さらに衣袖も確認する。
尽の制服袖は、手を出すたび覆い近くで動く。
袖を腕輪で固定すると、見た目の揺れが減った。
魔法を測る前に、服と体温が作る風を減らす。
「風魔法は、いつ教えてもらえますか」
「今、入口は教えている」
「羽片を落としただけです」
「飛ばす前に、何が動かしたか分けた。自分の力と室内風を混ぜたまま飛ばせば、成功した時ほど危ない」
次の潮、第二段階。
目標は、羽片を空中へ上げることではない。
透明覆いの中、垂直な細糸に吊られた羽片を、中央線から外さない。
風が来れば揺れる。
本人は大きな風を出さない。
微弱な入力があるなら、揺れを押し返す方向へ向ける。
最初は教師が外から一定の風を送る。
尽は手を近づける。
羽片が右へ揺れる。
戻そうとする。
何も起きない。
二回目。
右へ。
中央を越え、左へ。
これは魔法ではなく、教師の風を止めた後の振り戻し。
三回目。
尽の手側へ、針半分だけ動いた。
風の方向とは逆。
一呼吸。
すぐ右へ戻る。
共同確認あり。
再現なし。
「できた?」
尽が聞く。
「一回、入力候補」とアーレン。「中央保持はできていない」
五回目も、六回目も動かない。
羽片は中央へ留まらない。
飛ばない。
浮かない。
尽の初日結果は、〈風圧方向六/八。羽片板微動二/十二。吊羽逆向微動一、再現なし。〉
華やかさはなかった。
教室の外では、羽族の若者たちが飛行輪をくぐっている。
回転。
急降下。
赤い尾飾り。
歓声。
その横で、運搬組合の老いた羽族が帆紐を一本ずつ検査している。
競演も、この町の一部。
荷を落とさない仕事も、同じ町の一部。
アーレンは窓の外を見る。
「白羽の者が皆、姿だけを見ているわけじゃない。だが姿へ点が付き、修理へ歓声が付かないと、若い者は点の付く方へ集まる」
問題は羽族の性格ではない。
何へ賞を与えるか。
誰を目立たせるか。
地味な安全を、誰が数えるか。
明日の競演搬送では、カイルが元の灰尾羽で荷を運ぶ。
赤い細尾羽は、固定台で試験を続ける。
「見に行ってもいいですか」
尽が尋ねる。
「観客区画なら。ただし、おまえの訓練は羽片一枚だ」
「分かっています」
「空を見て、自分も飛べると思う顔をしている」
尽は否定できなかった。
いつか飛行器を作りたい。
地球の知識もある。
この世界には風法具と魔法がある。
材料は揃っているように見える。
だが今日の尽は、吊られた羽片を一呼吸、中央へ押し返すことすらできなかった。
羽片一枚が少し動いた。
それは空を飛んだことにはならない。
ならないからこそ、次に何を練習するかは分かった。
授業後、アーレンは宿で一人練習する札を出さなかった。
吊羽台は教師か登録練習場の監督下だけ。
自分で羽片を火の上へ吊らない。
強い風術を出そうとしない。
戒指を近づけない。
宿でできるのは、風向札を使わない皮膚感覚の記録だけだった。
窓を閉じた時。
換気口を開けた時。
廊下を誰かが通った時。
手の甲で感じた方向を先に書き、その後で細糸の向きを見る。
正解数を増やすために、見てから書かない。
尽は炉環宿へ戻り、宿主へ練習許可を求めた。
「風向を見るだけなら、食堂の端。窓は勝手に開けない。客の通路へ糸を張らない」
許されたのは、卓上の短い糸一本。
最初の六回で、尽の予想は四回当たった。
外した二回のうち一回は、厨房の排気。
もう一回は、羽族の客が翼を畳んだ風だった。
風法具も、風魔法も使っていない。
それでも、町の風がどこから来るかを少しずつ分けられる。
明日の授業で提出する宿題は、浮いた羽ではない。
六行の予想と、二行の間違いだった。




