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第五話 塩味一枚、山を削る

唸り声は、一つではなかった。


灰色の木々の間で、低い音が左右から重なる。


尽は走らなかった。


熊に会ったときは背を向けるな、とテレビで見たことがある。


ここに熊がいるかは分からない。


そもそも、地球の熊に通じる知識が、二つ太陽のある世界で役に立つ保証もない。


それでも、足元を見ずに森へ駆け込むよりはましだった。


崖を背にしない。


逃げ道がなくなる。


黒い城へ続く石道を右手に置き、左側の岩壁へ寄る。鞄を前へ回し、白紙の頁と薯片を中へ入れる。手に持っていれば、驚いた拍子に落とす。


武器になりそうな物を探す。


石。


長い枝。


鉛筆。


十五歳の少年が、森の獣と戦うには頼りない順番だった。


枝を一本拾う。


乾いている。長さは腕二本分。先端は尖っていない。


尽は鉛筆削りを持っていなかった。


家の鍵で樹皮を削ろうとして、やめる。時間が掛かる。鍵の山を傷めれば、帰れたとき家へ入れない。


帰れるか分からなくても、鍵を捨てる理由にはならない。


木々の間から、最初の獣が出た。


狼に似ている。


似ているのは、四本足と長い鼻だけだった。


肩の高さは尽の胸ほど。毛は白灰色で、背中に透明な氷片が何列も生えている。吐く息が白い。足が地面へ触れるたび、草へ薄い霜が広がった。


目は六つ。


左右に三つずつ。


尽は、熊の知識を捨てた。


狼の知識も半分捨てる。


一頭目の後ろに、二頭目がいる。


さらに左の茂みが動く。


群れだった。


尽は枝を大きく見せ、声を出した。


「来るな!」


言葉は通じない。


声量で、簡単な獲物ではないと思わせる。


一頭目が止まった。


六つの目が順番に細くなる。


尽の濡れた制服。


鞄。


胸の指輪。


視線が指輪で止まった。


獣の背中の氷片が、緑に光る。


首の銀輪も熱くなった。


相手は尽ではなく、指輪へ反応している。


「これが欲しいんか」


外して投げる考えが浮かぶ。


老神官との約束以前に、唯一こちらへ来た理由へつながる物かもしれない。簡単には渡せない。


それに獣が本当に指輪を欲しがっているとは限らない。


尽は右へ一歩動いた。


一頭目の首が追う。


左。


また追う。


視線の中心は胸だった。


指輪を制服の内側へ入れる。


獣が地面を蹴った。


尽は石道へ飛び出した。


背後で枝が折れる。


振り返らない。


道は崖に沿って下る。石畳はところどころ崩れ、隙間に青白い苔が生えている。


尽の靴は濡れていた。


最初の曲がり角で滑る。


左膝を石へ打ち、手をつく。


痛い。


骨は折れていない。


立つ。


獣が迫る。


尽は鞄から十円玉を一枚取り出し、道の外へ投げた。


金属音が岩へ当たる。


一頭だけが音へ顔を向けた。


残りは尽を追う。


金属なら何でもよいわけではない。


指輪の代わりにもならない。


次の曲がり角に、崩れた石柱があった。


道幅の半分を塞いでいる。人なら横を通れる。胸幅の広い獣は速度を落とす。


尽は隙間を抜け、枝を石柱の下へ差し込んだ。


てこの要領で動かす。


重い。


支点が悪い。


枝の位置を変える。


獣の爪音が近づく。


もう一度、体重を掛ける。


石柱がわずかに転がった。


道と岩壁の間を塞ぐ。


一頭目が止まり切れず、胸からぶつかった。


石柱は動かない。


獣は止まった。


後ろの二頭が背へ衝突する。


尽は走る。


完全な障害にはならない。


すぐ、石を引っ掻く音が聞こえた。


道の先に、古い見張り小屋がある。


黒い城ではない。


屋根の半分が落ちた石造りの小屋。扉はない。窓穴が二つ。人影はない。


中へ入る。


逃げ道を確かめる。


正面の入口。背面に崩れた細い穴。尽なら腹ばいで通れそうだが、途中が落ちているかもしれない。


床には古い灰。


壁に錆びた金具。


木箱が一つ。


蓋を開ける。


空だった。


空でも使える。


入口へ横倒しにし、足止めにする。


窓穴の下には石を積む。


戦うためではない。


一度に三頭が入らないようにする。


枝の先を、床に落ちた薄い金属片で削る。刃とは呼べないが、少し尖る。


獣が石柱を越えた。


一頭目が入口へ来る。


木箱を前足で潰す。


板が簡単に割れた。


時間は三秒も稼げない。


尽は背面の穴へ入る。


鞄が引っ掛かる。


外す。


先に押し込む。


身体を横へする。


背中を爪が掠めた。


制服が裂ける。


皮膚が熱い。


穴の向こうへ転がり出る。


そこは小屋の裏ではなかった。


道より低い、狭い岩棚だった。


三方が崖。


下には雪と石の斜面。滑れば谷まで止まらない。


戻る穴から獣の鼻先が出る。


胸幅がつかえ、身体全部は通れない。


一頭は止められる。


だが二頭目が小屋の外を回っていた。


岩棚の上から、六つの目が覗く。


尽は枝を構える。


相手が飛び降りれば、枝一本では止められない。


鞄の中を探る。


財布。


ノート。


白紙。


薯片。


食べ物の匂いで逸らせるかもしれない。


袋を投げれば、今ある唯一の食料を失う。


それ以前に、密封されていて匂いは弱い。


開ける。


ぱん、と袋が鳴った。


地球なら何でもない音だった。


この世界では、赤と緑の二つの太陽が同時に瞬いた。


指輪が胸から跳ね上がる。


袋の銀色の内側へ、七本の光が走った。


獣たちが止まる。


薯片の一枚一枚が、薄い金色に光っていた。


「なんでや」


答える者はいない。


白紙の頁に、読めない文字が現れる。


意味だけが入る。


〈世界外校准物質〉


〈塩・油脂・澱粉・乾燥構造〉


〈一回出力、許可待ち〉


尽は許可しない。


何が出るか分からない。


獣が飛んだ。


尽は袋へ手を入れる。


一枚掴む。


食べるつもりはなかった。


投げつけるつもりだった。


指が薯片へ触れた瞬間、塩の粒が青白い光になる。


頭の中へ、選択肢らしいものが流れ込む。


壁。


雷。


切断。


どれも説明がない。


尽は、最初の一つを選んだ。


壁なら、獣と自分の間を塞げる。


白紙へ一文字が浮かぶ。


〈出力規模、魔導士〉


意味を理解する前に、指輪が薯片を砕いた。


ぱりん。


塩味の欠片が光へ変わる。


尽の前に、壁が出た。


小さな盾ではなかった。


岩棚から空へ伸びる、青白い光の壁。


幅は見張り小屋どころか、崖の半面を覆う。


飛びかかった獣が壁へ当たる。


弾かれた。


一頭だけではない。


空気、石、雪、岩壁の表面まで、まとめて押し返す。


轟音。


尽の足元から先の斜面が、巨大な何かに削られたように消えた。


三頭の獣は青い光に巻かれ、谷の反対側へ飛んでいく。


見張り小屋の屋根も半分飛んだ。


遠くの森が一列倒れる。


光が消える。


崖には、袋から取り出した薯片とよく似た、半円形の巨大な窪みができていた。


尽は口を開けたまま、声が出なかった。


壁ではない。


少なくとも、人間が使ってよい大きさの壁ではない。


獣の姿は見えない。


死んだのか、飛ばされただけかも分からない。


「やりすぎやろ……」


膝から力が抜けた。


恐怖が去ったからではない。


身体の内側が、一瞬で空になった。


心臓は動いている。


呼吸もできる。


それ以外の筋肉が、命令を聞かない。


枝を握れない。


座ってもいられない。


岩棚へ倒れる。


薯片の袋が手から落ちた。


中身が二枚、地面へ滑り出す。


尽は必死に腕を伸ばした。


動かない。


風が吹く。


一枚が崖の方へ転がる。


「待て……それ、残り少ない……」


声も小さい。


薯片は窪みの縁で止まった。


助かった。


何が助かったのか、自分でも分からない。


森の奥から、別の角笛が聞こえた。


獣の声ではない。


低く、三回。


遠方の黒い城壁から、返事の角笛が二回。


今の光と音を、誰かが見た。


救助者か、もっと大きな獣を呼んだのかは分からない。


どちらでも、急ぐしかない。


尽は逃げようとした。


指一本、動かなかった。


二つの太陽は、相変わらず空にある。


赤い光が少し強まり、緑の光が細くなる。


夜は来ない。


時間だけが、光の割合を変えながら過ぎていった。


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