第四話 雷鳴の電話ボックス
雨が降ったのは、それから五日後だった。
朝の天気予報は晴れ。
降水確率は二十パーセント。
母は洗濯物を外へ干した。
尽も傘を持たずに学校へ行った。
昼過ぎ、山の上に細長い雲が現れた。
第二話の帰りに見たものと似ている。
同じ雲かどうか確かめる方法はない。
放課後、科学部で茶盌画像の復旧を続ける予定だった。
ところが顧問から、電源装置を専門業者へ見せるまでパソコンの使用を止めると言われた。
「昨日は動いたのに」三浦が不満を言う。
「動いたことと、安全に使い続けられることは別や」尽は答えた。
「お前、先生側に回ったん?」
「火事になったら部室ごとなくなる」
活動は早く終わった。
尽は駅前の便利店へ寄る。
財布には百円玉が一枚、五十円玉が一枚、十円玉が四枚。
家へ帰れば夕食がある。
それでも今日は、テレビで録画した映画を見るつもりだった。映画には菓子が必要である。これは科学ではなく、十五歳の常識だった。
棚の前で値札を比べる。
コンソメ味は高い。
海苔味も高い。
期間限定の辛い味は論外。
一番安い塩味のポテトチップスを取る。
内容量は、以前より少なくなった気がする。袋だけは同じ大きさで、空気が増えた。
「中身、減ってません?」
店員へ聞くと、苦笑された。
「メーカーに言うて」
尽は袋を光へ透かした。
上半分は、ほぼ空気だった。
それでも買う。
百円玉を出し、釣りを受け取る。十円玉は、公衆電話のため財布へ残した。
店を出た瞬間、風が変わった。
冷たい。
商店街の旗が、山と反対へ一斉になびく。
空を見上げる。
細長かった雲が、町の上だけで黒く広がっている。
最初の一滴が、薯片の袋へ落ちた。
次は、五滴。
十を数える前に、道路が白く煙るほどの雨になった。
尽は鞄を頭へ載せ、走った。
商店街の庇まで遠い。
バス停には人が詰まっている。
道路脇に、緑色の屋根をした電話ボックスが見えた。
飛び込む。
扉を閉めると、雨音が少し遠くなった。
制服の肩は濡れた。靴下も冷たい。薯片の袋は無事。鞄の中のノートも、端が濡れただけだった。
電話ボックスは古かった。
ガラスに小さな傷。金属の床。硬貨を入れる灰色の電話機。受話器のコードには黒いテープが巻かれている。
震災後に撤去された物も多い中、この一台は残っていた。
母へ連絡する。
地震のあと、風間家には「遅れるときは電話する」という決まりができた。
守らなくても叱られるだけだった以前と違い、今は連絡がない時間そのものが家族を不安にする。
十円玉を入れる。
自宅の番号を押す。
一度目は話し中。
受話器を置くと、十円玉が戻った。
二度目。
呼出音。
母が出る。
「尽?」
「雨、すごいから電話ボックスにおる。少し遅れる」
「どこの?」
尽は周囲を見る。
道路向かいの古書店。閉じた写真館。交差点名の標識。
「古書きさらぎの前。駅から西の——」
雑音が入った。
ざあ、という雨ではない。
紙を一度に何百枚もめくるような音。
「聞こえる?」
「じ……いま……」
母の声が途切れる。
ボックスの天井で、蛍光灯が点滅した。
電話台の下に、厚い本があることへ気づく。
電話帳だと思った。
表紙は水で膨らみ、町名のラベルが剥がれている。誰かが古書店から持ち出した本を置いたのかもしれない。
自宅以外の番号で掛け直す必要はない。
それでも雑音の中、尽は片手で本を引き出した。
電話線の故障箇所が本で分かるわけではない。
ただ、表紙の内側に〈故障時連絡先〉があるかもしれないと思った。
開く。
電話番号はなかった。
黄ばんだ頁に、大きな見出し。
〈二つの太陽を見た漁師、十年後も帰宅せず〉
その下には、真面目に読む気を失う挿絵がある。
角の生えた美女。
空飛ぶ鯨。
雪山の下にある巨大な鍛冶場。
昔の怪奇雑誌らしい。
「なんや、これ」
頁を戻そうとする。
紙が指へ貼りついた。
濡れていないのに、離れない。
胸の指輪が熱くなる。
赤紐が制服の下から浮き、金属の輪がひとりでに表へ出た。
内側の七本傷が、白く光る。
受話器から母の声が戻る。
「尽、そこから出て! 雷——」
空が白くなった。
音より先に、電話ボックスの金属枠が光る。
尽は受話器を放した。
落ちる前に、右手が薯片の袋を掴んだ。
なぜそちらを守ったのか、自分でも分からない。
次の瞬間、雷鳴が世界を割った。
耳で聞く音ではなかった。
骨の内側から身体を叩く。
電話機、ガラス、道路、雨粒。すべての輪郭が白く消える。
指輪だけが黒い円として残った。
円の内側に、七つの光。
一つ目に、雨の橋。
二つ目に、白い狐。
三つ目に、黒い茶盌。
四つ目に、午前二時十三分で止まった時計。
残り三つは、何も映さない。
本の頁が、電話ボックスより大きく開いた。
紙の向こうに、赤い光と緑の光がある。
尽は落ちた。
下へではない。
横へでもない。
自分が立っていた場所だけが遠ざかり、身体の方角がなくなる。
受話器のコードが足首へ触れる。
掴もうとする前に、切れた。
母の声も、雨も、町の匂いも消えた。
最後まで手に残ったのは、薯片の袋と古い本の一頁だった。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
尽は、冷たい石の上で目を覚ました。
最初に確認したのは、自分の身体だった。
右手。左手。
指は十本。
足も動く。
火傷はない。
制服は雨で濡れている。鞄は背中。財布もある。薯片の袋は右手に握ったまま、破れていない。
古い本はない。
代わりに、一頁だけが足元へ落ちていた。
見出しも挿絵も消え、紙は真っ白だった。
電話ボックスもない。
道路も、古書店も、電柱もない。
尽は立ち上がった。
足元から小石が転がる。
音が、ずっと下で消えた。
自分が崖の縁にいると気づく。
一歩下がる。
眼下には、灰色の森林と、氷に覆われた谷。古い石道が崖へ沿い、遠方の巨大な城壁へ続いている。
城壁の向こうに、黒い城が見えた。
尖塔から煙が上がっている。
人がいる。
少なくとも、火か煙を使う何かがいる。
尽は空を見上げた。
太陽が二つあった。
一つは赤い。
夕日の色ではない。輪郭のはっきりした赤い恒星が、空の片側を金色に染めている。
もう一つは緑。
薄暗い碧の光を放ち、森林の影を不自然に長く伸ばしていた。
見間違いではない。
目を閉じる。
もう一度開ける。
二つある。
「……どこや、ここ」
胸の指輪が、これまでで一番強く脈打った。
答えるように、白紙の頁へ二つの円が浮かぶ。
赤と緑。
その下へ、尽の知らない文字が一行現れた。
読めないはずなのに、意味だけが頭へ入ってくる。
〈境界外個体、到着〉
尽は紙を拾う前に、周囲を確認した。
息はできる。
空気に甘い金属臭があるが、喉は痛くない。十回深く呼吸しても眩暈は出ない。
重力も、少なくとも立てないほど違わない。
小石を肩の高さから落とす。
地球と同じくらいの速さで足元へ当たった。正確な測定ではないが、身体が急に軽くなったり重くなったりはしていない。
制服のポケットを調べる。
財布。家の鍵。鉛筆。消しゴム。科学部の部室鍵は顧問へ返したためない。十円玉四枚と、薯片を買った釣り銭。腕時計は動いているが、針が一度大きく震え、午後五時四十二分で止まった。
方位磁針は持っていない。
赤い太陽と緑の太陽のどちらを東と呼ぶかも分からない。
紙へ浮かんだ文字は、見直すと読めなくなっていた。黒い線が複雑に絡み、意味だけが消えている。
尽はノートへ写そうとした。
最初の一画を書いた瞬間、線が指の動きに合わせて形を変える。
写せない。
〈白紙一枚。赤緑二円出現。未知文字、最初は意味理解、二度目不可〉
異世界と書く代わりに、観察したことを書く。
次に、薯片の袋を確認する。
密封。穴なし。賞味期限は地球の数字のまま。非常食としては心細いが、今ある唯一の食べ物だった。
開けない。
水を確保してから食べる。
城へ向かう道は下り坂。森には唸り声。崖上には風を避けられる場所がない。
尽は、黒い城を目標候補にした。
安全とは限らない。
人がいる可能性が、森の中より少し高いだけだった。
森の奥から、低い唸り声がした。
尽は薯片の袋を抱え、崖から離れた。
異世界へ来たと認めるには、まだ証拠が足りない。
けれど、ここが神戸でないことだけは、認めるしかなかった。




