第三話 二時十三分の欠損ファイル
翌日、尽は科学部のパソコンを起動しなかった。
正確には、起動する前に電源装置をもう一度調べた。
昨夜の停電を、指輪や茶盌のせいにするには早い。
新しいヒューズの変色。
電源基板の焦げ。
コンデンサの膨らみ。
コードの被覆。
目で見られる範囲に異常はない。
顧問の立ち会いで絶縁抵抗も測る。学校にある古い測定器では細かな変化まで分からないが、少なくともすぐ使用中止にする値ではなかった。
「原因不明やな」顧問が言った。
「電源が古いから、で終わらせへんのですか」三浦が聞く。
「古いことは原因やない。古い部品の何が起きたか分かって、やっと原因候補や」
尽は少しだけ顧問を見直した。
普段は部費の申請書をなくし、実験用の砂糖を珈琲へ入れる人だが、分からないものを便利な言葉で閉じないところは信用できる。
パソコンを起動する。
昨夜と同じように動いた。
ファイルは戻らない。
〈0213〉だけ残った参照先も、再起動後には一覧から消えていた。
尽は、消えた場所へ新しいデータを書き込まないよう求めた。
削除されたファイルは、内容まで即座に消えるとは限らない。索引だけ失われ、別のデータで上書きされるまで磁気面に残っている場合がある。
学校のパソコンに復旧用の道具はない。
三浦が、兄の雑誌にデータ救出ソフトの付録があったと言った。
「持ってきてええ?」
「先に顧問へ聞く。勝手なソフト入れて、ほかの記録壊したらあかん」
「風間がまともなこと言うてる」
「俺はいつもまともや」
「ラジオに十円玉入れた奴が?」
なぜ三浦が八歳の事件を知っているのか。
母が参観日の待ち時間に話したらしい。
家庭内の失敗記録は、本人の同意なく外部へ共有される。
翌日、顧問の許可を得て、書き込みをしない起動用フロッピーから復旧ソフトを動かした。
消えた項目が十七件出る。
文化祭の古い原稿。
途中までの星図。
名前の崩れた画像らしい領域。
完全には戻らない。
茶盌の上半分だけが、横長の線へ乱れて表示された。白銀のひびは見える。七つの輪は出ない。
画像末尾に、文字列が少し残っていた。
〈……UNSIGNED……KAME……0213〉
三浦は英和辞典を開いた。
「アンサインド。署名なし?」
「KAMEは亀か、名前の途中か、壊れたデータか」
〈0213〉も時刻とは限らない。
二月十三日。
資料番号二百十三。
棚番号。
価格の一部。
尽にだけ見えた〈午前二時十三分〉と同じ数字でも、同じ意味だと決めない。
復旧画像をフロッピーへ複製する。
原本ではない。
復旧ソフトが壊れた部分を勝手に補った可能性もある。ノートには手順と使用ソフト、読み出した時刻を書く。
「お前、警察みたいやな」三浦が言った。
「警察がどうするか知らん」
なぜか、その言葉を前にも言った気がした。
焼けた詰所。
濡れた筵。
名前欄の空いた診察帳。
知らない景色が、頭の奥へ一瞬だけ浮かぶ。
尽は机へ手をついた。
「どうした」
「立ちくらみ」
嘘ではない。
ただ、見えたものを説明できない。
指輪は熱くなっていなかった。
パソコン室の備品台帳を調べる。
この機械は、地震後に閉鎖された市民講座から学校へ移されたものだった。以前の使用者名はない。添付品に〈古美術写真資料・フロッピー三枚〉とある。
三枚は見つからない。
移管時の担当教師は退職。住所欄は古い。顧問は連絡してみると言ったが、すぐ答えが来る保証はない。
「KAMEって、亀岡ちゃう?」三浦が言った。
「なんで」
「黒い茶碗、天目茶碗やろ。京都の方に窯とかありそうやん」
根拠は、だいたいである。
それでも尽は図書室で陶器の本を開いた。
天目。
曜変。
鉄釉。
写真の茶盌がどれに当たるか、低い解像度では分からない。〈天目〉という言葉が、首の指輪へ近づく感じだけがした。
指輪を外し、本の上へ置く。
変化なし。
頁をめくる。
古い窯の写真。
京都の寺。
戦時中の陶芸家。
指輪は冷たい。
特定の頁へ反応する便利な探知機ではないらしい。
尽は神社へ向かった。
老神官がいた頃の社務所は、鍵が掛かっている。新しい神職へ指輪のことを尋ねると、老人が私物を誰へ渡したか記録はないと言われた。
「七本の傷がある銀の指輪です」
「奉納品なら台帳にあるはずやけど」
台帳を見せてもらう。
指輪の記載はない。
老人の名前の横には、退任日と転居先の寺が書かれていた。尽が以前聞いた病院とは違う。
「この寺に?」
「予定やったんかもしれん。実際に移ったかは分からんね」
連絡先の電話番号は、先頭に斜線が引かれている。
廃止。
古い時計や発電機を収めた倉も、地震で壁が傷み、危険だから開けられない。
尽は無理に入ろうとしなかった。
帰り際、手水舎の銅樋を見る。
曲がったままだった。
雨水が何年も同じ溝を削っている。
老人は、水に道はない、低い方へ行くだけだと言った。
けれど一度できた溝は、次の水を同じ方へ導く。
指輪も同じなのかもしれない。
以前どこかへ通じた道が、金属の内側に傷として残っている。
考えただけで、証拠はない。
尽はノートへ書かなかった。
家へ帰り、父へ初めて指輪を詳しく見せた。
もらった当時にも話している。ただ、その頃の父は「なくすな」と言っただけで、材質まで調べなかった。
父は作業灯を点け、拡大鏡で表面を見る。
「銀に見えるけど、純銀やない。何か混ざっとる」
「何が?」
「それを調べる機械は、うちにはない」
磁石には付かない。
外周に継ぎ目がない。鋳型で作った跡も、削って輪へ合わせた跡も見つからない。
「内側の七本、文字?」
「傷やろ。ただ、同じ間隔に見えるな」
尽が測ると、完全には同じでなかった。中央の間隔だけ、髪一本ほど広い。
七つの傷が輪に見えたのは、尽だけだった。
「切ったら中の材質、分かる?」
父が睨む。
「切らへん。聞いただけ」
「お前の『聞いただけ』は信用ならん」
老神官との約束を説明する。
母も台所から話へ入った。
「あの宮司さん、あんたに渡す前、一度うちへ聞きに来はったで」
「何を?」
「古い物を子供へ持たせてええか。高価な物やないと思うけど、嫌なら断ってくれって」
尽は初めて聞いた。
老人は勝手に子供へ得体の知れない物を渡したのではない。親へ説明できる範囲を説明し、拒否する余地を残していた。
「熱くなること、言うてた?」
「そんな話は聞いてへん」
母は指輪へ触れる。
冷たい。
父にも冷たい。
尽の胸へ戻すと、ほんの少しだけ温度が上がった。
体温が移っただけかもしれない。
父は温度計で測ろうとしたが、家庭用では金属表面の細かな変化まで追えない。
「学校へ持っていくなとは言わん」父が言った。「でも電気につないだり、薬品掛けたりする前に言え」
「乾電池は前につないだ」
「知っとるから言うてんねん」
尽は、分かったことをノートへ足した。
銀らしいが合金不明。磁性なし。継ぎ目なし。七傷の中央間隔だけ広い。父母には発光せず。老神官は譲渡前に母へ確認。
最後に、〈切断試験はしない〉と書く。
これは検証結果ではない。
自分が選んだ停止条件だった。
その夜、夢を見た。
雨の橋。
欄干へ七つの輪が並んでいる。
白い狐が、向こう岸から尽を見ていた。
呼んでも来ない。
逃げもしない。
狐の後ろには、顔の見えない少女と、右肩の欠けた若者が立っている。
若者が何か言う。
雨音で聞こえない。
尽が橋を渡ろうとすると、狐が首を横へ振った。
そこで目が覚めた。
午前二時十三分。
枕元の目覚まし時計が、そう示している。
秒針は動いていた。
尽は時刻、夢の内容、指輪の温度をノートへ書いた。
指輪は冷たい。
夢は証拠にならない。
それでも、朝まで眠り直すことはできなかった。




