第二話 上がり続けない町
十五歳になった風間尽は、物を分解する前に写真を撮るようになっていた。
成長したからではない。
一度、友人のゲーム機を元へ戻せなくなり、修理代を三か月分の小遣いで払ったからだ。
失敗は人を賢くする。
正確には、同じ失敗をすると家計が死ぬ場合に限って、かなり賢くする。
一九九六年、秋。
神戸近郊の風間家では、食卓の端に請求書が積まれていた。
父は港の設備保守を続けているが、勤務先の名前が二度変わった。会社が大きくなったのではない。部署が別会社へ移され、また別の会社へ請け負われただけだった。
同じ作業服で、同じ機械を直す。
給料だけが少しずつ減った。
母は駅前の小売店で帳簿を付け、店が閉まったあとは別のスーパーで品出しを始めた。
学校の教師は、努力すれば未来は開けると言った。
父は新聞の求人欄を見ながら、「開いた先に仕事があるとは限らん」と言った。
どちらが正しいか、尽には分からない。
ただ、世の中は機械のようには動かないと思い始めていた。
壊れた部品を替えても、前より悪くなることがある。
誰も故障と認めないまま、音だけ大きくなることもある。
前年の地震で、町は一度、本当に壊れた。
風間家は倒壊を免れたが、壁には斜めの亀裂が残った。台所の戸は今も少し持ち上げないと閉まらない。父が補修した棚は、新しい木と古い木で色が違う。
通学路にも空き地が増えた。
以前は何が建っていたか、尽が思い出せない場所もある。
新しい建物が立てば復興と呼ばれる。
更地のままなら遅れていると呼ばれる。
そこに住んでいた人がどこへ行ったかは、ニュースだけでは分からなかった。
尽は、壊れた物を簡単に捨てなくなった。
地震で曲がった時計の針。
割れた窓の留め金。
家族が避難所へ持っていった懐中電灯の電池蓋。
使い道はない。
それでも、あの日そこにあったという理由で、工具箱の下段へ入れている。
父は何も言わなかった。
母は一度だけ、掃除しにくいと文句を言った。
捨てろとは言わなかった。
学校では、進路希望調査が配られた。
大学。
工業高専。
就職。
まだ中学生なのに、将来を一つの欄へ書けと言われる。
尽は〈機械関係〉とだけ書いた。
担任に呼ばれた。
「具体的に」
「壊れた物を直す仕事」
「自動車か、電気か、建築か」
「まだ分かりません」
「分からないままでは、選べないぞ」
「分からんのに選んだら、あとで違うって分かっても戻れへんやん」
担任は困った顔をした。
父も同じ顔をすることがある。
尽は反抗したいわけではない。
ただ、空欄を嘘で埋めるのが嫌だった。
放課後、科学部の部室へ行く。
部員は三人。
予算は少ない。
顧問は化学教師だが、活動の半分は壊れた視聴覚機器の修理だった。
尽には都合がよかった。
その日は、古いパーソナルコンピュータの電源が入らない原因を探していた。
電源装置を開ける前に、外観を写真へ撮る。ねじの位置を紙へ写す。コンセントを抜く。内部に電気が残る部品へ触れない。
一年生の三浦が横から覗いた。
「風間、それ直ったら何に使うん」
「知らん」
「使い道ないのに直すん?」
「直ってから考えたらええ」
「お前、そういうとこ怖いわ」
怖い理由は教えてくれなかった。
電源のヒューズが切れている。
交換すれば動くかもしれない。しかし切れた原因が分からないまま替えれば、また飛ぶ。
尽は基板の焦げを探した。
首から下げた指輪が、制服の中で少し温かくなった。
はんだごての熱ではない。
胸の同じ位置だけが温かい。
尽は手を止めた。
これまでにも、神社の古い時計や壊れた配電盤へ近づいたとき、指輪が熱を持ったことがある。
いつも一瞬だけ。
理由は分からない。
父のテスターで抵抗を測ったこともある。磁石を近づけた。冷蔵庫へ入れた。乾電池をつないだ——最後の実験は父に本気で怒られた。
結果は、ただの金属だった。
今も制服から出すと、もう冷えている。
「それ、何」三浦が聞いた。
「神社でもろた」
「彼女からちゃうんか」
「誰が中学生に指輪くれるねん」
「神社の爺さん」
「それは今言うた」
三浦は指輪を借りたがった。
尽は断った。
高価だからではない。
約束したからだった。
切らない。分解しない。なくさない。
神官は、二年前に神社を離れていた。
病院へ入ったと聞いたあと、どこへ移ったか分からない。社務所には別の神職が来て、古い発電機も止まった時計も倉へ片づけられた。
迷ったとき方向を忘れないように。
老人の言葉だけが残っている。
尽は、迷っている自覚がなかった。
進路は分からない。
家の金もない。
町は直った場所と直らない場所が混ざっている。
それでも目の前のヒューズが切れた理由なら、探せる。
基板の裏に、細い金属片が挟まっていた。
震動で外れたねじの座金だった。
電源を入れたとき、二つの端子を短絡させたらしい。
座金を取り除く。
焦げた箇所を確認する。
新しいヒューズを入れる前に、部室にある電流制限器を挟む。
電源を入れた。
低いファンの音。
黒い画面に、白い文字が出た。
三浦が歓声を上げる。
尽はすぐ成功と言わなかった。
十分動かす。電源装置の温度を見る。異臭がないか確かめる。
十分後も画面は消えない。
「直った?」
「今んとこ、動いてる」
老神官なら、その答えで頷いた気がした。
パソコンの中には、以前の生徒が作ったファイルが残っていた。
文化祭の会計。
星の観測記録。
途中まで書かれたゲーム。
そして、名前のない画像ファイルが一枚。
開くと、黒い茶盌の写真が表示された。
解像度が低く、釉の光が潰れている。底に銘はない。側面に白いひびが一本だけ走っていた。
「何これ。茶碗?」三浦が言う。
「なんで学校のパソコンに」
ファイルの作成者は分からない。
日付は壊れ、昭和と西暦が混ざったような数字になっている。
尽が画面へ顔を近づけたとき、胸の指輪が熱を持った。
今度は一瞬ではない。
皮膚を焼くほど熱い。
尽は指輪を制服の外へ出した。
黒ずんだ銀の内側で、七つの傷が淡く光っている。
画面の茶盌にも、光の輪が七つ浮かんだ。
三浦が瞬きをする。
「輪なんかあった?」
「見える?」
「何が?」
尽にだけ見えていた。
輪の中央へ、短い文字が現れる。
〈午前二時十三分〉
次の瞬間、パソコンの電源が落ちた。
部室の蛍光灯も消える。
廊下の時計だけが、音を立てて一分進んだ。
「ブレーカー飛ばしたんちゃうか!」
三浦が暗闇で机へ膝をぶつけた。
尽は指輪から手を離し、まずコンセントを抜いた。
廊下へ出る。
隣の教室は明るい。階段の非常灯も点いている。消えたのは科学部の部室だけだった。
分電盤を見ると、安全遮断器が落ちている。
異常な現象が起きた証拠にはならない。修理したばかりの古い電源が過電流を起こした可能性の方が高い。
顧問を呼び、何をしたか説明する。
座金を除いたこと。電流制限器を挟んだこと。十分動いたこと。画像を開いた直後に電源が落ちたこと。
指輪と七つの光は言わなかった。
隠したいからではない。
三浦に見えていないものを、電気故障の原因として混ぜたくなかった。
顧問が絶縁手袋を使い、遮断器を戻す。蛍光灯が点いた。
パソコンは、もう一度電流制限器を通して起動する。
立ち上がった。
焦げ臭さもない。
さきほどの画像ファイルだけが消えていた。
ごみ箱にもない。最近使ったファイルの一覧には、名前のない空欄が一つ残る。保存場所を示す文字列は途中で切れ、最後に〈0213〉という数字だけがあった。
「俺も茶碗は見たで」三浦が言う。「黒いやつ。輪っかは知らん。時間も出てへん」
同じ画面を見た二人の記憶が、途中から違っている。
尽はノートを開いた。
〈黒い茶盌。銘なし。白いひび一本。自分には輪七つ。三浦には見えず。文字、午前二時十三分。停電後ファイル消失。原因未確認〉
魔法とも幽霊とも書かなかった。
指輪は冷えている。
内側の傷も、いつもの擦り傷へ戻っていた。
帰宅時刻が遅くなる。
尽は校門前の公衆電話から家へ電話を掛けた。母へ部室の電源を調べて遅れたと伝える。
電話口の向こうで、夕食を温め直す音がした。
「雷、来そうやから早う帰り」
空はまだ晴れていた。
遠い山の上にだけ、細長い雲が一本浮かんでいる。
帰り道で、尽は冷えた指輪を制服越しに握った。
初めて、その輪を切らないと約束したことが、正しかったのか分からなくなった。




