第一話 壊してから考える子供
風間尽が初めてラジオを分解したのは、八歳の夏だった。
故障していたからではない。
ちゃんと鳴っていた。
台所の棚で、野球中継も天気予報も、母が毎週聴く歌番組も、少し雑音を混ぜながら真面目に流していた。
だからこそ、尽は中を見たくなった。
どうして小さな箱の中から、人の声が出てくるのか。
後ろの穴へ目を近づけても、暗い基板しか見えない。振ると、ねじが一本だけ転がるような音がした。
それがいけなかった。
音の正体を確かめようと、父の工具箱からドライバーを借りた。
借りた、と尽は思っている。
父に言わず持ち出したので、世間では別の言葉を使うかもしれない。
裏蓋を外す。
銀色の筒。色の帯が巻かれた小さな部品。銅線。黒い板に並んだ、町の地図みたいな細い道。
声を出していた人は、どこにもいなかった。
代わりに、声が出るまでに必要な物が、きちんと順番を守って並んでいた。
尽は夢中になった。
ねじを白い皿へ置き、外した順に部品を畳へ並べる。母に呼ばれても返事だけして、手は止めなかった。
一時間後。
台所へ戻った母は、ラジオだったものを見た。
「尽」
怒鳴らなかった。
静かに名前を呼ばれる方が怖いと、その日初めて知った。
「直せるん?」
「たぶん」
「たぶんで開けたん?」
「中に、ねじが落ちてる音がしてん」
「それ、あんたが前に隙間から入れた十円玉ちゃうの」
基板の端から、焦げた十円玉が見つかった。
三日前、貯金箱に入れようとして落とした硬貨だった。
尽は黙った。
母も黙った。
夕方、港の設備修理から帰った父は、畳の上の部品を見て頭を抱えた。
父の仕事は、壊れた機械を直すことだった。
それなのに自宅では、息子が壊れていない機械を壊して待っている。
「戻してみ」
叱られると思っていた尽は、顔を上げた。
「ええの?」
「よくない。戻せんかったら、今月はラジオなしや。新しいのも買わへん」
その頃、風間家では「また買えばいい」が使えなくなり始めていた。
父の仕事は以前ほど多くない。母が手伝う商店でも、閉める店の話が増えた。テレビでは景気が少し休んでいるだけだと言っていたが、食卓では肉の回数が減り、父の煙草は安い銘柄へ変わった。
尽には経済のことなど分からない。
ただ、失敗しても新品が来るわけではないことは分かった。
夜まで掛けてラジオを組み直した。
ねじが二本余った。
電源を入れる。
鳴らない。
父は答えを教えず、外した部品の跡を見ろと言った。尽はもう一度裏蓋を開けた。
銅線一本が、端子へ届いていない。
差し直す。
今度は、甲子園の歓声が聞こえた。
音は前より小さかった。それでも父は、新しいラジオを買わなかった。
余ったねじ二本は、透明な小袋へ入れて工具箱に吊した。
〈ラジオ。場所不明〉
父の字だった。
「捨てへんの?」
「どこに要るねじか、まだ分からんからな」
分からない物を、要らない物にしない。
尽は、その考え方が気に入った。
それから家の中の機械は、尽から逃げるようになった。
目覚まし時計は母の箪笥の上。
カメラは父が鍵の掛かる戸棚へ。
電話機には「開けるな」と紙が貼られた。
尽は紙の下へ、鉛筆で小さく書いた。
〈壊れた場合は相談〉
母に見つかり、消された。
家で触れる物がなくなると、尽は外の壊れた物を探した。
捨てられた扇風機。音の出ない玩具のピアノ。片方だけのヘッドホン。近所の自転車屋がくれた錆びたベル。
直る物もあった。
直らない物の方が多かった。
それでも、なぜ動かないかを一つ見つければ、全部失敗ではないと思えた。
夏休みの終わり、尽は山裾の神社へ通うようになった。
境内の裏へ、壊れた扇風機のモーターを持ち込んでいたからではない。
少なくとも、最初の目的はそれだけではなかった。
拝殿の脇に、古い手水舎がある。屋根から雨水を逃がす銅樋が途中で曲がり、雨のたびに石段へ水を落としていた。
その水が、いつも同じ溝を通る。
尽は境内へ座り、石の減り方を眺めた。
何十年も流れた水は、誰も線を引いていないのに一本の道を作っている。
「賽銭も入れんと、何を見とる」
背後から声がした。
白い装束の老神官が、竹箒を持って立っている。
尽は逃げなかった。
逃げると、悪いことをしていたように見える。
実際、境内へモーターを持ち込んではいたが、まだ何も外していない。
「水の道」
「水に道なんかない。低い方へ行くだけや」
「でも、低いとこが二つあったら、前に流れた方へ行く」
老人は石段を見た。
尽も見る。
しばらく二人で黙った。
「難しいこと言う子やな」
「難しくない。削れてるから」
老人は笑い、尽の隣へ腰を下ろした。
神社には、動かない物がたくさんあった。
錆びた釣燈籠。切れた鈴緒。針が止まった社務所の時計。戦前からあるという手回し式の発電機。何に使ったか誰も知らない木箱。
尽にとって、宝の山だった。
「分解してええ?」
「あかん」
即答だった。
「壊れてるのに」
「壊れとるから、誰でも好きにしてええわけやない」
老人は止まった時計を指した。
「直すなら、何をするか先に言う。外した物は並べる。分からん部品は捨てん。元に戻せんときは、戻せんかったと書く」
父と少し似ていた。
尽は頷いた。
最初に任されたのは、時計ではなく鈴だった。
社務所の戸が開くと鳴る、小さな真鍮の鈴。紐が切れ、床へ落ちたままになっている。
尽は釘の位置を測り、古い紐を観察した。
紐だけ替えれば鳴る。
しかし新しい紐はなかった。
老人は買いに行けと言わない。
尽は持ってきたモーターから、被覆の残る細い銅線を外した。撚って輪を作り、鈴を吊す。
戸を開ける。
ちりん。
音は小さい。
もう一度。
ちりん。
「直った」
「前と同じか」老人が聞く。
尽は考える。
元の音を知らない。
「鳴るようにはなった。前と同じかは分からん」
老人は満足そうに頷いた。
それから三年、尽は神社へ通った。
毎日ではない。
学校で叱られた日。父の仕事がなく、家の空気が重い日。直せない機械を前にして、自分まで役に立たない気がした日。
境内へ来て、壊れた物を見る。
老人は、直せる物だけを渡したわけではない。
何もするなと言う日もあった。
古い絵馬は、字が読めなくても削らない。
錆びた刀の鍔は、磨けば模様まで消える。
止まった時計は、ある家族が奉納した時刻を残しているかもしれない。
動かすことが、いつも直すことではない。
尽は、その考えだけは少し苦手だった。
機械は動くためにあると思っていた。
けれど老人は、動かない物にも、そこにある理由があると言った。
小学六年の冬、老人は社務所の奥から小さな紙包みを出した。
中には、黒ずんだ銀の指輪が入っていた。
模様も宝石もない。
よく見ると、内側に細い傷が七つ並んでいる。
「これ、壊れてる?」
「どう見える」
「輪っかやから、つながってる。指輪としては壊れてない」
「ほな、持っとき」
尽は老人を見た。
「なんで?」
「迷ったとき、方向を忘れんように」
「指輪に方角なんかないで」
「せやから、自分で決めるんや」
老人は、それ以上説明しなかった。
高価な物には見えない。銀かどうかも怪しい。子供の指には大きく、親指でも抜けそうだった。
尽は首から下げようとした。
老人が古い赤紐を出す。
「落とさんようにな」
指輪を紐へ通し、首に掛ける。
金属が胸へ触れた瞬間、熱くなった。
尽は飛び上がり、紐を引いた。
指輪はもう冷たい。
「今、熱かった」
「そうか」
老人は驚かなかった。
「知ってたん?」
「知らんことを、知っとる顔で言わんだけや」
尽は指輪を光へかざした。
内側の七つの傷が、一瞬だけ墨の輪に見えた。
瞬きをすると、ただの擦り傷へ戻る。
「分解してええ?」
「輪をどう分解するつもりや」
「切って、断面を見る」
老人は紙包みを取り返しかけた。
尽は慌てて指輪を胸へ隠した。
「せえへん。たぶん」
「たぶんやったら返し」
「絶対せえへん」
その約束だけは、守った。
指輪は何年たっても、開けられない唯一の機械になった。




