第四十八話 次に会う時は、旅名ではなく
リゼッタが氷風城を発つ日は、赤白灯が強かった。
王都使者サーヴァンは別便で先に帰っている。
リゼッタとオルドは、予定どおり一般の碧縁商旅へ乗る。
王女専用車は来ない。
匿名観察の行程を、最後まで同じ規則で閉じるためだった。
ただし旅札の内札には王室照合済み印があり、氷風城の境界担当と車掌だけが知っている。
緊急時の連絡先も登録された。
尽は見送りへ行く前に、工房の仕事を休まなかった。
誤乗防止図の第一版を商旅厅へ渡す。
受付台へ重りを付ける。
係員側と客側の上向き矢印を揃える。
試用開始時刻を記録する。
十潮後の評価欄は空白のまま。
まだ成果は出ていない。
次に、リゼが持ち帰る保温箱量規写しを封筒へ入れる。
許可範囲は外形、蓋互換、保温試験。
除外範囲は材料配合、熱石枠内部、氷風城保証印。
受取人は旅名ではなく、リゼッタ・ノクティア個人。
王都工房へ渡す場合、誰へ渡したかを炉環へ返報する。
彼女は受取欄へ正式名で署名した。
「長い」と尽。
「だから旅名を使ったのよ」
「受付係の人が言っていました」
「何を?」
「長くても書いてください」
リゼッタは言い返せなかった。
出発前の荷物は、往路より少ない。
別送された外套と菓子缶は氷風城で受け取ったが、王都への帰路では荷便へ回した。
客車へ持つのは旅行箱一つ、茶器箱、図面封筒。
「食事用外套は?」
尽が尋ねる。
「荷便」
「学びましたね」
「平焼きパンに外套は要らないと分かっただけ」
炉環客舎の未使用宿代も精算した。
青い剣封印紐は、碧暮側の武器所まで継続。
工房客札は返却。
隔離庫禁止札も、終了印を押して返す。
「最後まで入れなかった」
リゼッタが太字を見る。
「入る予定はありませんでした」
「一枚くらい、薯片を見たかった」
「王女でも駄目です」
「王女だと知っても、そこは変わらないのね」
「変わる理由がありますか」
「ないわ」
彼女は少し嬉しそうだった。
商旅厅には、いつもの列がある。
赤縁。
碧縁。
荷便。
途中下車。
尽が作った試用図の前で、老いた人間の夫婦が係員と確認していた。
目的地名だけでなく、碧曜域、黒枝経由、薬師宿の三項目へ順番に触れる。
正しいセレヌ門切符が出た。
一件だけでは、図の成功とは言えない。
それでも最初の使用記録になった。
リゼッタは図を見る。
「あなたが間違えたから、できたのね」
「間違えなくても、誰かが作った方がよかったです」
「でも、誰も作らなかった」
「はい」
失敗した者にしか見えない不便はある。
失敗した者だけが直す義務を負うわけではない。
けれど見えたのなら、知らせることはできる。
出発待機線へ、商旅が入る。
尽とリゼッタは柵の内側に立った。
オルドは荷札と席を確認している。
「王都へ来る?」
リゼッタが尋ねた。
「文庫の返事が来て、条件を確認してからです」
「赤縁より先に?」
「決めていません」
「私なら、王都を先にする」
「リゼさんは王都へ帰るので」
「リゼッタ」
彼女が訂正した。
尽は少し考える。
「人前でも?」
周囲の旅人は、彼女が王女だと知らない。
「ここでは、まだリゼでいい」
「ではリゼさん」
「次に会う時は、リゼッタと呼んで」
「王女殿下ではなく?」
「それは公式の場だけ。豆を食べる時に殿下を付けたら、味が悪くなるわ」
「豆の味は変わらないと思います」
「雰囲気の話!」
尽は少し笑った。
リゼッタも笑う。
それから彼女は、声を低くした。
「星環文庫が返事を出したら、王都から炉環へ同時に送る。私だけが先に読まないよう、封閉条件も付ける」
「王女の保証が通らなかったら?」
「個人担保の範囲だけで運べるか、もう一度条件を作る。無理なら、無理だと伝える」
「資料が何も残っていなかったら?」
「それも答えよ」
気休めではない。
資料がないという答えで、帰る方法は見つからない。
だが、存在すると思い込んで王都へ向かうよりはいい。
「僕が赤縁へ行っている時に返事が来たら、氷風城で保管してください」
「あなたを追いかけて届けないの?」
「個人資料を持って追いかけないでください」
「冗談よ」
「オルドさんができそうなので、冗談に聞こえません」
少し離れた場所で、オルドが答えた。
「封書を影へ入れて移動することは、今回の条件に含まれません」
「ほら、しないわ」
「できない、ではなく、しないなんですね」
尽が言うと、オルドは黙った。
リゼッタが笑い出した。
出発鐘の一つ前。
彼女は外套の内側から、小さな札を出した。
保温箱競技の採点札。
十六点と書かれた、自分の分だった。
「持っていたんですか」
「次は負けないために」
「同じ課題はしません」
「分かっている。だから、点じゃなくて、失敗した場所を見るの」
終盤の温度上昇。
残力二目盛。
取っ手の修正。
試作時の低温過多。
裏には、安全講習の四項目も写してある。
彼女は勝敗だけを持ち帰るのではなかった。
「尽は何を持っていくの?」
尽は、自分の記録帳を見せた。
白線二回。
呼吸変化の観察。
次回試験条件。
「弱い記録ね」
「はい」
「悔しくない?」
「強くなりたいです。でも出なかった六回を消すと、次に何を変えるか分かりません」
リゼッタは頷いた。
「私も、十六点を消さない」
乗車鐘が鳴る。
オルドが先に客車へ入る。
リゼッタは踏み板へ足を掛け、もう一度振り返った。
「赤縁で、また行先を間違えないでよ」
「試用図を使います」
「図が間違っていたら?」
「紹介状と経由地と受取人を、別々に確認します」
「それでも間違えたら?」
「安全な場所で止まります」
答えを聞き、彼女は満足したようだった。
「じゃあ、次に会う場所は、間違えた先じゃなくて、選んだ先にしましょう」
客車へ乗る。
扉が閉まる。
商旅は碧縁門へ向かって動き出した。
尽は追いかけない。
走行禁止でもある。
見送り線の内側で、最後の荷台が見えなくなるまで立っていた。
リゼッタは王都へ帰る。
尽は氷風城へ残る。
次は赤縁へ向かうかもしれない。
星環文庫の返事が先に来るかもしれない。
どちらも、まだ決まっていない。
決まっているのは一つ。
次に会う時、彼女は旅名だけの少女ではない。
そして尽も、偶然同じ商旅に乗っただけの少年として会うつもりはなかった。
商旅が大隧道へ入った後、尽は炉環議事所へ戻った。
招待札の原本は議事所が保管する。
尽には同一番号の写し。
リゼッタには、保留条件と本人署名を含む王都側写し。
どちらかが後から文言を書き足せば、番号照合で分かる。
星環文庫の返事は氷風城へ。
返事が届いても、自動的に招待受諾にはならない。
尽が赤縁にいる場合、閉鎖棚で待つ。
期限を過ぎれば、未開封のまま返送するか、本人へ延長照会を出す。
その手順まで札へ加えた。
工房へ戻ると、机の上には三枚の計画紙があった。
一枚目。
赤縁セレノ渡り。風法具工房と基礎魔法教師。紹介状あり。出発日未定。
二枚目。
黒角王都。星環文庫。正式回答待ち。招待保留。
三枚目。
地球帰還。白頁、止まった時計、戒指。方法不明。
三枚を重ねなかった。
王都へ行けば地球へ帰れる、とも書かない。
赤縁へ行けば王都の機会を失う、とも書かない。
別々の条件で、別々に決める。
その横に、メルダの医療札を置いた。
次の長距離歩行試験。
膝の再評価。
出発許可は、その後。
壮大な三つの道の前に、明日は城内を決められた距離だけ歩く。
尽はそれを、遠回りだとは思わなかった。
リゼッタが持ち帰ったのは、十六点の失敗記録だった。
尽が残したのは、まだ一歩も進んでいない三枚の計画紙。
どちらも、次の選択を始めるには十分だった。
決めていないことを、決めたふりはしない。その余白もまた、今の尽が守るべき予定だった。




