第四十六話 隠した名前にも、責任者が要る
黒角王都からの使者は、工房へ直接来なかった。
まず氷風城の炉環議事所へ入り、中立都市の受付札を取った。
随員二名。
武器箱一つ。
密封文書三通。
滞在一潮。
訪問先は炉環議事所、旅札局、グランドーガ工房。
旗も楽隊もない。
王都の紋章は、文書箱の封蝋にだけ刻まれていた。
使者の名はサーヴァン。
角族の中年男性で、長い角を黒布で覆っている。濃紺の上着には飾りが少なく、袖口の銀線だけが身分を示していた。
彼が求めたのは、非公開の責任会議だった。
参加者は炉環側から、議事所の境界担当、旅札局長、グランドーガ、ボルン。
碧暮側から、サーヴァン、オルド、リゼ。
尽は呼ばれなかった。
境落ち資料の申請者ではある。
だが今回の議題は、彼の資料そのものではなく、王都側が誰の名で責任を持つかだった。
会議室へ入る前、リゼはオルドに尋ねた。
「旅名のままでは駄目?」
「工房見学だけなら可能でした」
「今は?」
「星環文庫の資料移送、王室警護対象の中立滞在、赤縁越境制限。どれも旅名だけでは、責任主体が不足します」
「私が名乗れば、尽にも伝わる?」
「会議参加者には守秘を求められます。公開範囲は殿下が選べます。ただし緊急時には、炉環が身分に基づいて対応します」
リゼは短い角へ触れた。
名前を隠せば、普通に扱われる。
それを望んで旅へ出た。
だが普通の旅人には、王都文庫を動かす責任も、外交問題を引き受ける権限もない。
「分かった。私が言う」
会議が始まる。
サーヴァンが密封文書の一通目を開いた。
黒い封蝋。
銀の角冠。
王都認証札と旅札局の検証石が同時に光る。
偽造反応なし。
リゼは立った。
昨日までの赤い外套ではない。
黒枝から別送された衣装も、まだ届いていない。
氷風城の客舎で借りた簡素な濃灰の上着を着ている。
「リゼは旅名です」
彼女は自分の口で言った。
「私は黒角王国国王ガルゼオンの第二王女、リゼッタ・ノクティア。王都の許可を越えて赤縁へ進まないこと、氷風城での滞在と工房見学に関する責任を、王家の名で確認します」
グランドーガは驚いた顔をしなかった。
「やはりな」とも言わない。
旅名で扱ってきた者を、後から知った身分で評価し直さない。
「工房で壊した物はない。客札違反もない」とだけ答えた。
「隔離庫の菓子を食べたいとは言ったわ」
「言うだけなら違反ではない」
「何度も」
「記録には回数まで要らん」
リゼッタは少し安心した顔をした。
二通目は、彼女の警護責任だった。
オルドの正式名と役目。
〈王家影衛オルド・シェイド。姫殿下の生命保護、緊急退避、王都連絡を担当。平時の都市命令権なし。〉
影衛。
炉環側の境界担当は、その語を確認する。
「影を用いた移動、拘束、遮蔽を含むか」
「含みます」とオルド。「ただし炉環内での行使は、生命への切迫した危険、または都市側責任者の要請に限ります」
「武器欄が申告なしだった」
「影術は身体技能として王都旅札で登録済みです。携行具ではありません」
サーヴァンが登録札を出す。
旅名局には非公開の照合番号だけが届いていた。
規則を潜り抜けたのではない。
公開旅札へ能力詳細を書けば、護衛方法そのものが漏れるため、責任局だけが内札を持つ方式だった。
炉環側は番号を照合し、緊急時の連絡手順を追加した。
平時、オルドに工房命令権はない。
客札の立入範囲も変わらない。
三通目は、星環文庫に関するものだった。
王都は、尽の照会を受けた事実だけを確認している。
資料の所在も、閲覧許可も、まだ審査中。
新しい答えはない。
ただし、将来文庫が写しの中立移送を認めた場合、個人情報を含む封書を誰が受領し、どこで保管し、誰の前で開くかを先に決める必要がある。
サーヴァンは提案した。
王都側輸送責任者は星環文庫。
国境までの封印保証は黒角王家。
氷風城側の受取場所は炉環議事所の閉鎖書庫。
開封には、尽本人、炉環記録係、王都文庫代理の三者。
工房は、尽の希望がなければ内容を読めない。
王家も、照会回答を政治目的へ転用できない。
「私が保証人になります」
リゼッタが言った。
サーヴァンが彼女を見る。
「殿下個人の保証ですか。王家の保証ですか」
「違うの?」
「個人なら、殿下の権限と財産の範囲。王家なら、国王または委任状が必要です」
彼女は一度、口を閉じた。
旅の初めなら、同じだと言ったかもしれない。
「今の私は、個人として移送費と封印違反時の補償を担保する。王家保証は、父上へ申請する」
「範囲を」
「星環文庫から氷風城閉鎖書庫まで。尽の閲覧判断や、内容の真実性までは保証しない」
境界担当が記録する。
強い名前を出しても、何でも保証できるわけではない。
誰が、どこまで引き受けるかを書く。
それで初めて、身分が責任になる。
会議の最後に、リゼッタは公開範囲を選んだ。
炉環議事所、旅札局長、グランドーガ、ボルン、メルダ。
工房の一般学徒と尽には、まだ公開しない。
「どうして尽には言わない」とグランドーガが尋ねた。
「言えば、態度を変えるかもしれないから」
「変えないかもしれん」
「それを確かめたいの」
「試すために名を隠すのは、相手に同意を取れん試験だ」
リゼッタは言葉に詰まった。
グランドーガは続ける。
「いつまでもは認めん。おまえの身分が、あいつの行程、資料、費用、安全へ影響する判断をした時点で伝えろ」
「今の保証は?」
「まだ資料が動いていない。だが王家申請が通り、実際に封書を送るなら、その前だ」
リゼッタは頷いた。
秘密にも期限が付いた。
会議後、彼女の公開旅札は〈リゼ〉のままだった。
内札には、王室照合済みの銀印が加わる。
工房客札も立入範囲は変わらない。
隔離庫禁止の太字も、そのまま。
サーヴァンは、滞在期限も確認した。
王都が追認したのは氷風城まで。
匿名観察は、次の二便以内に終了。
一便目で帰るか、二便目まで残るかは、リゼッタが選べる。
赤縁へは行けない。
氷風城から別の碧暮都市へ向かう場合も、王都へ新しい行程を出す。
「二便目まで残る」とリゼッタは言った。
「理由を」とサーヴァン。
「工房の材料識別を、もう一潮見る。保温箱の複写図を受け取る。尽が赤縁へ出るか決めるまで待つ」
「三つ目は、殿下の公務ではありません」
「私の旅の理由よ」
「個人的理由として記録します。彼が出発しなくても、帰還期限は延びません」
リゼッタは不満そうだったが、頷いた。
「王都へ一緒に来るよう誘うのは?」
「自由です。王室命令と誤解させないこと。旅費、通行札、資料閲覧を褒賞のように約束しないこと。星環文庫の審査へ圧力をかけないこと」
「誘うだけなのに、条件が多いわね」
グランドーガが鼻を鳴らす。
「名前が重い奴ほど、普通の誘いが命令に聞こえる」
彼女は自分の正式名が書かれた内札を見た。
旅名で保温箱を作っていた時にはなかった重さだった。
「尽に名乗る時は、王都へ来いと言う前にする」
自分で条件を加えた。
サーヴァンが記録する。
公開の期限は、資料移送が決まる時だけではなく、王女の立場で勧誘する時にも来る。
秘密を保つことと、相手に選ばせることが衝突した時は、選択に必要な名を先に出す。
炉環側も、その条件で守秘を受けた。
尽は共同作業場で、誤乗防止図の重りを削っていた。
リゼが戻ってくる。
「長かったですね」
「書くことが多かったの」
「何を?」
「私の旅の責任」
嘘ではない。
全部でもない。
尽はそれ以上聞かず、二つの重りを見せた。
「羽風で地図が返らない重さを試します。重すぎると紙が破れます」
「私が風を出す?」
「客札では、自分の魔力入力は禁止です」
リゼは札を見る。
「申請するわ」
少しして、ガルド監督、低風量、紙から三歩、停止札あり、という条件が付いた。
リゼは細い風を送る。
一枚目の地図は浮かない。
二枚目は角だけがめくれる。
尽が重りの位置を変える。
彼女は同じ強さを保つ。
身分を明かしても、工房の試験は同じだった。
尽だけが、それを知らなかった。




