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第四十五話 間違えた地図には、次の人の矢印を

氷風城へ戻った次の潮、尽は旅へ出なかった。


赤縁紹介状も開かない。


星環文庫の返事も来ていない。


まず、机の上へ三種類の紙を並べた。


誤乗記録。


霧路観測記録。


保温箱の量規図。


どれも自分だけが読めればよい記録ではない。


工房へ残すなら、次に使う者が同じ条件を再現できなければならない。


最初に作ったのは、商旅厅へ渡す誤乗防止図だった。


赤いセレノ渡り。


碧いセレヌ門。


色だけでは足りない。


赤碧の色を見分けにくい者もいる。照明で色が変わることもある。


名前も似ている。


尽は目的地名の横へ、三つの確認欄を付けた。


太陽域。


経由地。


到着後に渡す相手。


セレノ渡りなら、赤縁、白羽境站、風法具工房。


セレヌ門なら、碧縁、黒枝経由、門城連絡所。


さらに、係員側と客側の地図へ同じ上向き矢印を付ける。


机の向きではなく、大隧道の赤縁出口を上とする。


「これで間違えない?」


フィオが聞いた。


「分かりません。試します」


共同室の机へ二枚を置く。


フィオは客役。


ティムは受付役。


バルクは後ろで急かす旅人役。


「早くしろ、荷便が出るぞ」


バルクが低い声で言う。


ティムが地図を回す。


フィオの翼が動き、客側の紙が半回転した。


尽は止めなかった。


試験だからだ。


フィオは名前だけを見て、最初はセレヌ門を指した。


次に太陽域の欄を見る。


「赤縁へ行くから、違う」


経由地を見る。


白羽境站。


最後に、紹介状の宛先と照合する。


風法具工房。


セレノ渡りへ直した。


「止まった」とティム。


「今回は」と尽。


二回目は、地図を裏返す。


三回目は赤い灯りだけを当て、色差を弱くする。


四回目はバルクが別の地名を大声で言う。


名前欄だけでは二度迷った。


三項目まで見ると、四回とも正しい方へ戻れた。


ただし確認時間は長くなる。


商旅厅が混んでいる時、全部を係員が読み上げるのは難しい。


そこで三項目を、客が指で一つずつ触る方式にした。


読めない者には、太陽輪、途中門、受取人の道具を絵で示す。


完成ではない。


試用図として商旅厅へ渡し、十潮だけ使って誤りと受付時間を測る。


正式採用は、その後だった。


試用図の裏には作成日と第一版の印を付けた。修正する時も上書きせず、第二版として残す。どの変更で受付時間や誤乗件数が動いたか、後から比べるためだった。


「自分の間違いを、こんなに大きく貼るのは嫌じゃない?」


フィオが言う。


「名前は貼りません」


「そういう意味じゃなくて」


尽は少し考えた。


嫌ではある。


赤へ向かうつもりで碧へ行った話は、共同室でもう知られている。


「隠して、次の人も間違える方が嫌です」


フィオは頷き、図の角へ翼風除けの小さな重りを付けた。


次は霧路記録。


こちらは全部を工房へ写せない。


第七码庫の境落ち資料には閲覧制限がある。個人の発見状態、所持品、移送先を勝手に共有してはいけない。


尽は、商路技術だけを抜き出した。


三針の意味。


台座傾斜の影響。


路霧虫の巣殻。


路杭音の欠落。


停止、後退、迂回の順。


霧顎を振動杭で誘導した事実。


境落ち資料については、〈別管理・閲覧条件あり〉の一行だけ。


ボルンが写しを読む。


「観測器の白針が動かなかった時、おまえは何をした」


「赤針と碧針、台座札を読みました」


「それから」


「白入力が弱い、と読み上げました。進む判断はヴァルガさんです」


「なら、そう書け。装置を見た者が止めたように読める」


尽は文章を直した。


〈記録補助者は入力差を報告。路守責任者が停止を命令。〉


発見と決定を分ける。


旅の中では分かっていたことも、短くまとめると混ざりやすい。


旅費の帳面も閉じた。


出発前に自分で稼いだ額。


誤乗切符の未使用区間返金。


黒枝の宿、水、伝書。


セレヌ門までの追加切符。


臨時仕事の報酬。


夜牙の閲覧料。


帰路切符。


一枚ずつ、炉環札と赤銅貨へ換算する。


グランドーガの保証旅札には、最低帰還連絡費の担保があった。


今回は使っていない。


黒枝の伝書も、夜牙往復も、自分の手持ちと契約報酬で払った。


だから保証人負担欄は零。


ただし、保証が不要だったわけではない。


旅札がなければ、黒枝で期限を止めることも、セレヌ門で合法な短工を受けることもできなかった。


金を払わなかった責任と、制度上支えた責任は違う。


尽は帳面へ、〈保証金使用なし・保証身元使用あり〉と書いた。


グランドーガが確認印を押す。


「借りが零になった顔をするな」


「お金は零です」


「紹介状、旅札、連絡先、帰ってくる寝台。金でない物を数えろ」


尽は別欄を作った。


保証人。


診療記録。


同行許可。


工房の帰着先。


使ったのに財布から減らなかった物を、そこへ記した。


返せる物は、次の旅人の保証や記録を手伝うことくらいだった。


誤乗防止図を作る理由が、もう一つ増えた。


三つ目は保温箱の量規図。


通る側。


通らない側。


四隅の角度。


蓋の互換試験。


黒点薄板の冷却差。


三個の抽出保温検査。


リゼの作業番号も、旅名のまま残っている。


彼女は共同作業場で図を見た。


「私の名前、ここにある」


「作業者なので」


「王都へ持って帰ってもいい?」


「工房の図です。グランドーガさんに申請してください」


「私も作ったのに」


「作業したことと、図面を持ち出す権利は別です」


リゼは以前なら怒っただろう。


今は、持出申請札を取った。


目的欄へ〈王都生活術工房での試作参考〉。


複写範囲は外形量規と保温試験だけ。


氷風城の材料配合、熱石枠の内部寸法、保証印は除く。


王都で改変した物へ、氷風城の合格印を使わない。


条件付きで許可された。


「全部じゃないのね」


「全部でなくても作れます」と尽。


「作ってみせるわ」


その言葉には、以前のような根拠のない全能感が少なかった。


許された図だけで、どこまでできるか試す顔だった。


仕事が一段落すると、尽は低能練習室へ行った。


旅の前と同じ無色板。


戒指は布袋へ入れ、二歩離れた保管箱へ。


食事時刻、睡眠、膝の状態を記録する。


リゼは客札で見学できるが、指導はできない。


担当教師は氷風城のセルマだった。


「今日は八回。白線が出ても、熱術成功とはしない」


「はい」


一回目。


反応なし。


二回目。


反応なし。


三回目、板の端に白線。


一呼吸で消える。


四回目、なし。


五回目、なし。


六回目、白線。


七回目と八回目、なし。


八回中二回。


旅先の公開練習と同じ程度だった。


温度札は動かない。


板を替えても、結果は変わらない。


「弱すぎるわ」


リゼが率直に言った。


セルマが見る。


「見学者は、観察を言っていい。評価は担当がする」


「なら、白線が出る前、呼吸が一度浅くなった」


尽は振り返る。


「二回とも?」


「三回目は吐いた後。六回目は吸う前。肩が少し落ちた」


セルマは記録板へ〈見学者観察〉と区別して書いた。


呼吸が原因か。


白線の直前に緊張が抜けただけか。


次回、呼吸間隔を一定にして比べる。


今日、追加試験はしない。


「今すぐ試せばいいでしょう」


リゼが言い、すぐ自分で止まった。


「……八回で終わりと決めたのね」


「そう」とセルマ。


リゼはそれ以上言わなかった。


尽の状態欄は、変わらない。


〈本人微弱反応候補・訓練中〉


旅をしても、資料を読んでも、王女らしい少女と競っても、突然強くはならなかった。


その日の終わり、白頁の一潮保管期限が来た。


フェルとボルンが封番号を読み、透明板の傷、温度札、外包を確認する。


開封なし。


照明試験なし。


変色なし。


尽へ返却。


彼は受取欄へ署名し、防水布へ戻した。


戒指にも、新しい発熱はなかった。


何も起きなかったことも、記録へ残る。


待っている間に勝手に進む謎ばかりなら、記録する者は要らない。


進まなかった時間を残すから、次に動いた時の違いが分かる。

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