第四十三話 帰った者にも、到着手続きがある
黒枝から氷風城へ向かう接続便は、次の活動鐘に出た。
遅延札はない。
追加検査もない。
乗員数、荷札、武器封印、工具封紐。
定められた順番で確認され、定められた時刻に門が開く。
リゼは今度、旅行箱を増やしていなかった。
茶器箱も秤の範囲内。
「学んだわ」
「別送しただけでは?」
「持たない判断を学んだの」
オルドが無言で頷いた。
商旅は黒い森を離れ、大隧道へ入った。
碧暮側の入口では、壁の鉱石灯も青緑だった。
奥へ進むほど、灯りの色が薄くなる。
碧。
白。
淡い紫。
やがて、天井の細い導光溝へ赤い筋が混ざった。
尽は往路にも通った道だ。
それでも、碧側から赤側へ向かうのは初めてだった。
身体へ大きな変化はない。
空気が少し乾き、頬の温度が上がる。
隣の客車では、リゼが短い角の根元を押さえていた。
最初の休止台で、尽が尋ねる。
「痛いんですか」
「痛くはない。むずむずするだけ」
「赤い光で?」
「碧暮の魔族は、みんな少し違うの。私は氷術が散りやすくなる。火術は、逆に輪郭が太くなる」
「弱くなるんですか」
「変わるの。弱いとは言ってないわ」
リゼは指先へ、ごく小さな青い光を出した。
大隧道の休止台は、許可された生活術区画である。
光は細い糸になったが、碧暮側で見た時より縁がぼやけている。
彼女はすぐ消した。
「氷を同じ幅で出すなら、少し絞る。火なら広がりすぎないよう、外を先に止める」
「分かるんですか」
「身体で分かるわ」
尽には、その感覚がない。
練習石の白線すら、六回に二回。
地域が変わった時の術の違いを、指先で比べることもできない。
代わりに、リゼが出した光の幅を目で見て記録する。
「書くの?」
「本人の説明と、見えた範囲だけ」
「もっと綺麗に出せた時にして」
「綺麗さは項目にありません」
「入れなさいよ」
オルドは赤い導光溝の下で、いつもより影が薄かった。
灯りが強いからではない。
足元の影だけが、体の輪郭より半歩近くへ縮んでいる。
尽は二度見た。
一度目は光の角度。
二度目は休止台を移動した後。
どちらも同じ。
それでも、理由は聞かなかった。
オルドは自分の体調を申告していない。歩き方も呼吸も変わらない。
影だけを見て、人ではないと決める根拠にはならない。
大隧道の中央には、赤と碧の境界札があった。
国境ではない。
導光と路守管轄の切替地点。
ここで先頭の案内役が交代し、牽引獣の補助石も赤側用へ替える。
荷車は止まった。
乗客は降りない。
碧側の路守が人員札を読み、赤側の路守が復唱する。
荷札の数。
封印の数。
診療上の注意。
尽の名前も呼ばれた。
「風間尽。左膝、長距離座位可、禁走行、禁荷積み」
「本人、異常なし」
尽が答える。
「リゼ。短期中立通行。赤縁越境不可」
リゼは一瞬だけ顔をしかめた。
「本人、了解」
それでも、きちんと答えた。
王都からの制限は、引継札にも入っている。
隠して氷風城まで来たわけではない。
オルドの名も呼ばれる。
「オルド。同行護衛。旅名責任札あり」
護衛。
尽はその言葉を聞いた。
ただの従者ではないらしい。
リゼが金持ちの娘で、家の護衛を連れているなら不思議ではない。
それ以上は、まだ分からない。
赤側の案内役へ引き継がれ、商旅が動く。
壁の灯りは赤みを増した。
氷山内部の冷気は変わらないのに、見える色だけで暖かく感じる。
尽は、地図の碧線を折り畳んだ。
赤い丸が近づく。
氷風城の外門へ着いた時、商旅は定刻より半鐘早かった。
早く着いても、勝手に入城はできない。
門前待機線で止まり、到着鐘を待つ。
尽は外壁を見上げた。
黒枝やセレヌ門より見慣れた石。
赤白の導光板。
昇降機の軋む音。
遠くの鍛造鐘。
数十潮しか暮らしていない。
それでも、帰ってきたと思った。
門が開く。
尽は最初に工房へ走らなかった。
走行禁止でもある。
何より、到着手続きが先だった。
商旅厅で途中下車札、黒枝通過印、セレヌ門滞在印、夜牙短期照合札を順番に出す。係員は全部を一枚にまとめず、それぞれの終了欄へ別の印を押した。
保証旅札には〈帰着〉。
期限停止は解除。
グランドーガの保証責任も、この旅程分は終了。
赤縁紹介状は未使用。
延長期限内のため、返却される。
「次に使う時は、新しい出発登録が要ります」
「はい」
工具袋の灰紐は、炉環の工具窓口で解かれた。
記録石には、黒枝の宿主立会い一回、セレヌ門練習場支給品使用で開封なし、夜牙で開封なし、と残っている。
工具を一本ずつ数える。
錐。
短いやすり。
小槌。
欠品なし。
余計な工具もない。
次は診療所。
メルダは診察台の前で腕を組んでいた。
「歩いて帰ってきた顔ね」
「荷車に乗って帰りました」
「そういう意味ではないわ」
尽は靴を脱ぎ、膝を見せる。
左右の温度。
腫れ。
曲げ伸ばし。
三角痛。
夜牙東関で一度だけ指半分の温差が出たことも報告する。診療札を渡し、休息後に消えた記録を見せる。
メルダは隠さなかった点には頷いた。
だからといって、制限を全部外さない。
次の一潮は工房内作業のみ。
長階段なし。
荷運びなし。
その後、再評価。
「帰ってきたから治るわけじゃない」
「分かっています」
「分かっている人は、同じ質問をされても怒らない」
尽は怒らず頷いた。
診療所の外には、グランドーガとボルンがいた。
迎えに来たという顔ではない。
報告を受け取る顔だった。
「赤へ行ったはずの弟子が、碧から客を連れて帰ったな」
グランドーガが言う。
「連れてきたわけではありません。同じ便を予約しました」
後ろで、リゼが口を挟む。
「私が自分で手続きしたのよ」
「それは結構」
グランドーガは彼女の角、剣の青紐、旅札、オルドの影を一度ずつ見た。
何も尋ねない。
「工房へ入るなら、客札が要る。旅名で申請したなら、工房でも旅名だ」
「分かっているわ」
「分かっている者は、説明が終わるまで返事を待つ」
リゼは口を閉じた。
尽は少しだけ安心した。
氷風城へ帰った。
ここでは、自分だけが彼女を止める役ではない。
リゼとオルドの手続きは、尽より長くかかった。
二人は帰着者ではなく、新規滞在者だ。
セレヌ門の通行札。
王都側の赤縁越境禁止。
武器封印。
滞在目的。
宿泊場所。
帰還期限。
一つずつ確認される。
リゼは滞在目的へ〈工房見学〉と書いた。
係員が尋ねる。
「見学許可はありますか」
「これから取るわ」
「許可前は、目的ではなく希望です」
欄は〈炉環都市見学・工房見学希望〉へ直された。
「細かいわね」
「工房に断られた時、旅札まで虚偽になるのを防ぎます」
リゼは二度目の署名をした。
滞在は二潮。
王都命令の帰還期限内。
延長する場合は、王都側報告先と炉環の両方へ申請。
赤縁門から先へ出ることはできない。
中立域内でも、高熱工房、鉱道、隔離区は個別許可が要る。
オルドの旅札には〈同行護衛〉とある。
尽がその文字を見たことに、彼は気づいていた。
「リゼ様の家より、旅中の安全管理を命じられています」
「剣だけですか」
尽は尋ねた。
「必要な範囲で」
答えは嘘ではない。
範囲が分からないだけだった。
宿は工房共同室ではなかった。
リゼが客札を取れても、住み込み学徒の寝台へ入れる理由はない。
西環の炉環客舎に、隣り合う二室を取る。
一室はリゼ。
一室はオルド。
廊下側の扉は別々。
内側の連絡扉は、宿主と両者の同意がなければ開けない。
オルドは開通を希望した。
リゼは最初、不要と言った。
「護衛なのに、隣にいるでしょう」
「壁を隔てています」
「壁くらい、あなたなら」
言いかけて止まる。
宿主が見る。
「壁をどうするって?」
「声が聞こえるでしょう、と言ったの」
結局、連絡扉は開通状態にし、リゼ側から内鍵を掛けられる条件で登録した。
宿代には、寝台、水、共同湯、荷物棚が含まれる。
食事は別。
別送外套がまだ届いていないため、荷物棚は半分以上空いていた。
リゼは空の棚を見て、初めて少し寂しそうな顔をした。
「食事用がない」
「食事はできます」と尽。
「服の話よ」
「今着ている服で食べられます」
「あなたに相談した私が悪かったわ」
宿泊札まで発行され、剣は客舎内でも青紐を維持する。
オルドの武器欄は〈申告なし〉だった。
それでも彼の影は、赤白灯の下で薄く伸び縮みする。
係員は影を武器として登録しなかった。
尽にも、それが何なのか説明できない。
分からないものを、勝手に申告欄へ足す権利はなかった。
すべて終わる頃には、到着から一鐘半が過ぎていた。
リゼが椅子へ沈む。
「氷風城へ入るだけで、こんなに書くの?」
「僕が出る時も、たくさん書きました」
「それで行先を間違えたの?」
「書類は正しかったです」
「慰めになってないわね」
尽は頷いた。
手続きは、間違いをゼロにはしない。
誰が、どこで、何を確認したかを残す。
間違えた後、戻る場所を作る。
今回、その場所まで帰ってきた。




