第四十話 勝たせてもらった人は、負け方を知らない
勝負の後、リゼは食堂へ戻らなかった。
若葉寝台の裏庭にある水路脇で、膝を抱えて座っていた。
赤い外套を畳み、その上へ腰を下ろしている。
高そうな布を敷物にしてよいのか、尽には分からない。
オルドは少し離れた壁際に立っていた。
尽は通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
呼び止められる。
「勝ったのに、何も言わないの?」
「片づけは終わりました」
「そうじゃなくて。もっと、悔しがらせるようなこと」
「必要ですか」
「勝者でしょう」
「保温箱の合計点では」
リゼは顔をしかめた。
「その言い方、嫌い」
「剣も魔法も、僕は負けます」
「分かっているわ」
「路面を凍らせる速さも。鉄板を曲げる速さも。水の上下差も負けました」
「じゃあ、どうして私が負けたのよ」
「全部を同じ力で解こうとしたから、だと思います」
リゼの目が細くなる。
尽は逃げずに続けた。
「最初の箱は、温めるのも冷やすのも魔法でした。本番は、苔布と放熱口も使った。だから一点差まで来た」
「次なら勝てるわ」
「たぶん」
「たぶん?」
「課題が同じなら。違えば分かりません」
水路の向こうで、荷運び獣が鼻を鳴らした。
リゼは小石を一つ拾い、水へ投げる。
「私は今まで、負けたことがないの」
「何の競技で?」
「剣。氷術。火術。飛行盤。騎獣。戦術盤。何でも」
「全部、同じ人たちと?」
「先生は違うわ。相手もたくさんいた」
「採点札は、開始前に見ましたか」
リゼは黙った。
「途中で先生が止めた時、失格になりましたか」
「危険だから止めたのよ」
「相手が怪我をさせそうな攻撃を止めたことは?」
「私を傷つけるほどの攻撃は、訓練で許されないでしょう」
「リゼさんが相手を傷つけそうな時は?」
「相手が避けるわ」
言い切った後、彼女自身が何かに気づいた。
水路を見る。
さっき投げた石の波紋は、もう消えていた。
「みんな、私に勝たせたって言いたいの?」
「分かりません」
「逃げた」
「見ていないことは決められません。でも、リゼさんが本当に強いことと、周りが危険を避けていたことは、両方ありえます」
「同時に?」
「はい。今日だって、リゼさんの魔法は強かった。でも、地面の下までは固まらなかった」
リゼは唇を噛んだ。
怒鳴らなかった。
オルドへ顔を向ける。
「あなたは、どう思うの」
黒衣の従者は、すぐ答えなかった。
「私の役目は、リゼ様を目的地へお戻しすることです」
「質問に答えて」
「訓練相手は、あなた様へ怪我を負わせれば処罰を受けました」
「私が命じていなくても?」
「命じていなくても」
「先生たちは?」
「成長を望んでいました。ただし、失敗をそのまま示す自由は限られていたでしょう」
リゼの顔から、血の気が引いた。
尽は彼女の正体を知らない。
それでも、普通の金持ちの娘に対する答えではないと分かった。
「どうして今まで言わなかったの」
「お尋ねにならなかったからです」
「今、聞いたから言った?」
「はい」
「ひどい」
「申し訳ありません」
オルドは頭を下げる。
声音は変わらない。
だが足元の影が、ほんの少しだけリゼの方へ伸びていた。
慰める手の代わりのように見えた。
リゼは立ち上がる。
「もう一度、別の勝負をするわ」
「明日は仕事を探して、次の潮に出発準備があります」
「そこは空けなさいよ!」
「帰りの食費が要ります」
リゼは金貨袋を出しかけた。
尽が先に言う。
「僕が勝負するためにお金をもらったら、次に僕が負けても、手加減したと思いませんか」
手が止まる。
「面倒くさい」
「公平にすると、そうなります」
「じゃあ、仕事が終わった後」
「安全な課題があれば」
リゼは納得していない。
それでも金貨袋を戻した。
食堂へ戻る途中、彼女は尋ねた。
「あなた、氷風城へ帰って、次はどこへ行くの?」
「最初の予定では赤縁のセレノ渡りです。風法具工房と、基礎魔法の先生がいます」
「赤縁?」
声が急に低くなる。
「人族の方へ行くの?」
「はい」
「どうして」
「紹介状があるから。近くて、正规商路があって、教えてくれる人もいるからです」
「碧暮にも魔法の先生はいるわ」
「知っています」
「王都なら、もっと上の先生もいる」
「星環文庫から返事がなく、王都通行札もありません」
「私が――」
リゼは言葉を切った。
また、身分を使いかけたらしい。
「知り合いに頼める」
「個人資料を渡す相手の名前と責任が分かれば、考えます」
「名前、ね」
彼女は自分の短い角へ触れた。
旅名だけで通そうとすれば、他人の本名を求める資格も弱くなる。
「三潮後、あなたと同じ商旅に乗るわ」
「氷風城へ?」
「ええ」
「王都へ帰らなくていいんですか」
「旅の途中よ」
オルドが初めて、はっきり困った顔をした。
「リゼ様、当初の予定には」
「予定は変えるものよ」
「通行札と報告先も変わります」
「変えればいいでしょう」
「誰が手続きを?」
「……私がやるわ」
リゼは連絡所へ向かおうとする。
閉所鐘が鳴った。
足が止まった。
尽は何も言わない。
「笑いたければ笑えば?」
「明日の最初の鐘で行けばいいと思います」
「そうするわよ」
翌活動鐘。
リゼは本当に、連絡所の列へ並んだ。
氷風城までの切符。
境界中立地への通行札。
武器封印の継続。
宿の未使用分精算。
王都側の報告先変更。
一つずつ申請する。
家名を使えば早くなる窓口もあったはずだ。
彼女は旅名のまま並んだ。
途中で二度、列を間違えた。
一度、必要な証明札を宿へ取りに戻った。
それでもオルドへ丸投げしなかった。
昼鐘の前、ようやく切符が出る。
尽と同じ便。
席は別の客車。
リゼは切符を掲げて見せた。
「取ったわ」
「おめでとうございます」
「もっと驚きなさいよ」
「切符なので」
「あなた、本当に腹が立つわね」
口では怒りながら、彼女は少し笑っていた。
切符を取った後も、手続きは終わらなかった。
旧索路で受けた地形術使用禁止を解除するには、安全講習と実技確認が要る。
「氷風城では使わないから、放っておけばいいでしょう」
リゼは最初そう言った。
窓口係は事故札を指す。
「禁止期間は一潮で終わります。ただし未受講の記録は残ります。次に炉環商路で地形術を使う場合、監督者付きから再開です」
「受けるわ」
決めるまで一呼吸だった。
講習は、魔法を弱くする訓練ではなかった。
術前に何を確認するか。
誰が停止を命じられるか。
術後に何が見えなくなるか。
変化を戻せない場合、どこまで封鎖するか。
四つを、実例札で選ぶ。
〈ぬかるんだ路面を凍結。表面は硬化。地下未確認〉
講師が問う。
「最初の確認は?」
「私の氷が荷重に耐えるか」
不正解札が置かれた。
リゼの眉が上がる。
「術者の力より先に、地面がなぜ沈んだか」と講師は言う。「水だけか。空洞か。根腐れか。配管か。原因によっては凍結で隠れる」
二問目。
〈強風で霧を払う。視界改善〉
「停止を命じる者は?」
「術者より、路守。後続車と路杭音への影響を見ているから」
今度は正解だった。
三問目。
〈崩れた土壁を石化。倒壊停止〉
「術後に見えなくなるものは?」
リゼは少し考える。
「元の亀裂。水の流れ。壁の内側にいた生き物。それと、私が固めなかった部分との境目」
講師が正解札を置いた。
一度教えられれば、応用が速い。
実技は砂箱で行われた。
表面の下に、木片、空洞、水袋の三つが隠されている。目標は箱全体を固めることではなく、小さな旗の周囲だけを人が一歩置ける強さにし、内部状態を後から調べられるよう残すこと。
リゼは最初、広い範囲へ手を向けた。
止まる。
細い氷輪を旗の周囲へ三つ作り、その間へ未凍結の観察溝を残した。荷重板を載せる前に、自分で探り棒を求める。
一つ目は木片。
二つ目は空洞。
空洞の上を避け、残る二点だけを繋いだ。
三つ目の水袋は凍らせない。凍れば膨らみ、砂箱の条件を変えるからだ。
実技は一度で合格した。
講師は解除札を渡す。
「魔法は十分。最初からそうだった。今日は、使わない場所を覚えた」
リゼは札を受け取り、しばらく見つめた。
勝った時に渡される飾り札より、ずっと薄い。
それでも彼女は、外套の内側へ丁寧にしまった。
「どうだった?」
講習場の外で待っていた尽が尋ねる。
「簡単だったわ」
「最初の問題は?」
「……問題の方が、少し意地悪だった」
オルドは何も言わない。
尽も追及しなかった。
解除札を自分で取りに来たことは、事故費用を金で払うより難しかったはずだ。
オルドの手には、折り畳まれた黒い伝書札がある。
一瞬だけ開いた裏面に、銀色の角冠が見えた。
尽は文字を読めなかった。
伝書札はすぐ閉じられる。
その潮の終わり、セレヌ門の伝書塔から黒い翼獣が飛び立った。
向かった先は氷風城ではない。
碧曜のさらに奥。
黒角王都の方角だった。
伝書には、短い一文が記されていた。
〈姫殿下、予定外行程。氷風城へ同行。護衛継続。身分未開示。〉




