第三十八話 身分を隠すなら、列にも並ぶ
セレヌ門へ戻った尽は、最初に報酬を受け取らなかった。
先に人員札。
次に通行札。
第七码庫の閲覧終了印。
東関の診療記録。
旧索路の延長作業記録。
五つを別々の窓口へ返す。
一つの机で全部済ませれば早いが、仕事、旅券、医療、書庫の責任が混ざる。
最後に、炉環の仕事窓口で報酬計算が行われた。
基本三潮。
霧待機なし。
旧索路記録、一鐘延長。
往復切符と東関宿は契約側負担。
閲覧料は本人負担分を報酬から差し引き。
残りは、氷風城への帰路を買っても二潮分の食費が残る額だった。
尽は銅貨と札を数え、受取欄へ署名した。
「先に金を受け取らないなんて、変わっているわね」
横から、リゼの声がした。
彼女も帰着手続きをしている。
青い剣封印紐は、まだ付いたままだ。
「記録を返さないと、仕事が終わりません」
「戻ってきた時点で終わりでしょう」
「戻ったことを記録した時点です」
「同じよ」
「僕が途中で別人と入れ替わっていたら?」
リゼは尽の顔を見る。
「そんな地味な顔へ、わざわざ?」
「例えです」
「例えにも華がないわ」
ヴァルガは二人を無視して、無許可凍結の事故札を窓口へ出した。
リゼの顔から余裕が消える。
処分は重くなかった。
路守の停止中に地面状態を変更したため、仮車線調査の追加費用を一部負担。次の一潮、セレヌ門外での地形術使用禁止。講習を受ければ解除申請可。
「私に罰金?」
窓口係が訂正する。
「費用負担です。罰金ではありません」
「同じでしょう」
「事故記録上、違います」
「私が誰か分かって――」
オルドが一歩前へ出た。
「旅名リゼ様。こちらへ」
彼は最後の二文字を強く言った。
リゼは口を閉じる。
旅名を使うなら、旅名の者として扱われる。
家の権限を出せば、身分も移動目的も明かさなければならない。
彼女は費用札を受け取り、乱暴に署名した。
「これでいい?」
「読めません」
係員は新しい札を出した。
二度目は、ゆっくり書いた。
尽は先に返程窓口へ向かった。
氷風城行きの次便は三潮後。
残席四。
今度は列の途中でなくならなかった。
尽は一席を予約した。
セレヌ門滞在札も、出発潮まで延長する。
目的は星環文庫の返事を待つことではない。
返事には早くても十潮かかる。
三潮後に帰り、氷風城で待つ。
紹介状の期限も、まだ残っている。
赤縁のセレノ渡りへ行き直す計画まで、ここで捨てる必要はなかった。
予約を終えると、若葉寝台へ戻る。
四潮分を予約していた以前の寝台は、取り消した時点で別の客へ渡っている。空きは三階の端だけだった。
階段がある。
尽は膝の条件を伝える。
宿主は一階の食堂脇にある小部屋を出した。
元は食材札の倉庫で、壁に棚跡が残っている。寝台は狭いが、階段はない。
料金は三階と同じ。
「食堂の音がうるさいよ」
「階段から落ちる音よりいいです」
「落ちる予定なのかい」
「予定には入れていません」
荷物を置き、氷風城への報告文を書く。
第七码庫で読んだ四例。
白頁の比較。
戒指微熱による停止。
星環文庫への照会。
夜牙から無事帰着。
三潮後の氷風城便を予約。
推測は別欄にする。
〈ミアの紙冊と私の白頁は、類似する。関係未確認。〉
〈黒角王都に後続記録がある可能性。通行許可なし。〉
書き終えたところで、食堂から大きな声がした。
「どうして私が大部屋なの!」
リゼだった。
若葉寝台まで来たらしい。
宿主が帳面を叩く。
「個室は満室。大部屋なら二床。嫌なら別を探しな」
「この町に、もっと上等な宿はあるでしょう」
「あるよ」
「なら、そこへ案内して」
「案内料を払うならね」
リゼがオルドを見る。
従者は小さな財布を開けた。
中には王都の金貨が並んでいる。
宿主は一枚を見て、首を横へ振った。
「釣りがない。炉環札へ替えてきな」
「金よ?」
「大きすぎる金だ。パン一つに城を払われても困る」
尽は食堂へ出た。
「交換窓口は、連絡所の二番です」
リゼが睨む。
「知っているわ」
「今、閉まる鐘が鳴りました」
「じゃあ、どうするのよ」
「大部屋に泊まる」
「あなたに聞いてない」
オルドが宿主へ、王都の信用札を見せた。
炉環で換金できる正式札だが、宿主には照会する義務がない。偽札だった場合、回収に一輪かかる。
結局、リゼとオルドは大部屋二床を取った。
旅人名で動くなら、宿も旅人扱いになる。
リゼは椅子へ座り、尽の夕食を見る。
煮豆。
黒い平焼きパン。
あの苦い青紫の葉。
「それ、おいしいの?」
「葉以外は」
「葉は?」
「薬箱の味です」
リゼは信じていない顔で、一枚注文した。
口へ入れる。
三度噛む。
顔が止まった。
吐き出そうとして、宿主の視線に気づく。
高貴な者らしく飲み込んだ。
「どうですか」
「普通ね」
目に涙が浮かんでいる。
尽は煮豆の皿を押した。
「下に隠すと、少しましです」
リゼは黙って葉を豆の下へ埋めた。
一つ、町のやり方を覚えたらしい。
食事の後、彼女は尽の机に置かれた照会受取証を見た。
「星環文庫?」
声の調子が変わる。
「知っているんですか」
「王都で一番、返事が遅い場所よ」
「それは聞きました」
「一番、入るのも面倒。紹介状が三枚、身元照合が二系統、閲覧理由の審査。王族でも待たされるわ」
オルドがまた咳払いした。
リゼは一瞬止まり、言い直す。
「王族でも待たされる、と聞いたことがあるの」
「詳しいですね」
「王都育ちだから」
嘘ではないのだろう。
全部でもなさそうだった。
彼女は照会番号を覗こうとする。
尽は紙を裏返した。
「個人資料です」
「私なら、少し早くできるかもしれない」
「どうやって?」
「知り合いがいるの」
「正式な窓口より早く?」
「たぶん」
「その場合、僕の申請理由と発見記録を、その知り合いへ渡しますか」
リゼは答えなかった。
早くなる代わりに、誰へ何が渡るのか。
尽には、その方が重要だった。
「今は正式な返事を待ちます」
「せっかく親切で言ったのに」
「ありがとうございます。でも、誰か分からない人には渡せません」
リゼは頬を膨らませた。
断られることに慣れていない。
それでも照会証を奪わなかった。
「三潮後、氷風城へ帰るの?」
「はい」
「星環文庫へ行かないの?」
「返事も通行札もありません」
「手掛かりがあるのに?」
「手掛かりと切符は別です」
リゼは理解できない顔をした。
オルドは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その足元の影が、また一度、灯りと逆へ揺れた。
尽は見た。
だが指摘しなかった。
不思議な影を見たことと、従者が怪物だと決めることは違う。
記録帳へ書くなら、こうなる。
〈オルドの足元の影、二度、不自然に揺れたように見えた。光源との関係未確認。〉
今は書かなかった。
本人たちの前で私的特徴を記録する理由がない。
リゼは苦い葉を全部煮豆の下へ押し込み、立ち上がった。
「三潮あるのね」
「あります」
「なら、その間に一度、私と勝負しなさい」
「何の?」
「何でもいいわ。今日の地面の件は、勝負じゃなかったもの」
「勝負にする必要がありますか」
「私があると言っているの」
尽は少し考えた。
「安全で、許可が取れて、壊しても弁償できるものなら」
「条件が多い!」
「少ないと、また費用札が出ます」
「じゃあ、あなたが条件を決めればいいでしょう」
「それだと、僕に有利な競技を選べます」
「私が決めるわ」
「リゼさんに有利になります」
「面倒ね。どうすれば公平なの?」
尽は食堂の壁にある生活術公開練習の札を指した。
「第三者に課題と合格条件を決めてもらいます。開始前に書いて、途中で変えない。魔力量だけで勝負すると僕が負けるので、同じ材料と同じ時間で、指定された結果へ近づける課題がいいです」
「負けると分かっているのね」
「魔力では」
「それ以外なら勝つつもり?」
「測っていないので、分かりません」
リゼは、また楽しそうに笑った。
「いいわ。明日、課題を選ばせましょう。逃げないでよ」
「出発鐘と膝の条件が優先です」
「最後まで格好がつかないわね、あなた」
「格好は採点項目に入れないでください」
リゼは言葉に詰まった。
食堂の隅で、宿主が声を立てずに笑っている。
セレヌ門での残り三潮。
星環文庫の返事は来ない。
氷風城への帰路も変えない。
それでも、予定表にはなかった一行が増えた。
〈旅名リゼ。勝負内容、未定。〉




