第三十七話 固めた地面は、強くなったとは限らない
第七码庫で最後に開いたのは、境落ち記録ではなかった。
三十輪前の路杭台帳。
現在の二十三号付近には、かつて二本の杭があった。高音を鳴らす主杭と、地面へ低い震えを送る補助杭。霧穿ちが増えた年、補助杭だけが二十四号側へ移されている。
理由欄には、短く書かれていた。
〈塩根採取路との干渉を避く〉
採取路が廃止された後も、補助杭は戻されていない。
その事実だけで、今回の陥没原因とは言えない。
ただ、主杭一本へ負担が集まっていた可能性はある。
尽は旧番号、移設先、記録日を読み上げた。
ロッカが原本を確認し、ヴァルガが現在の路図へ黄色い印を付ける。
「これで仕事は終わりだ」
ヴァルガは記録板へ完了印を押した。
「現場で補助杭を戻すかは、路守会議で決める。おまえは決めない」
「分かっています」
「顔が、口より先に案を出している」
尽は口を閉じた。
補助杭を元の場所へ戻せばよい、とは限らない。塩根の位置も、霧穿ちの巣も、現在の道幅も変わっている。
古い正解は、今の正解ではない。
第七码庫を出る前に、白頁の封番号をもう一度照合した。
戒指の温度は平常。
膝にも熱はない。
星環文庫への照会受取証は、通行札と別の袋へ入れる。
手掛かりを得た。
だが持ち帰れるのは、許可された短い写しと、照会番号だけだった。
夜牙東関へ戻ると、本道二十三号には赤い使用停止札が掛けられていた。
修理隊はまだ現場へ入らない。
霧穿ち穴の範囲を、地表の沈み、探り棒、影獣の熱感知で外側から測っている。掘った獣を捕まえるより、先に荷車が落ちない範囲を決める。
帰路は予定どおり旧索路。
商旅は東関で荷札を整え、触導索を点検し、乗員数を木駒で数えた。
出発時より客が二人増えている。
一人は、赤い外套を着た若い角族の女性。
もう一人は、黒衣の従者らしい男。
女性の角は短く、磨いた黒石のようだった。腰に細身の剣を下げ、外套の留め具だけで尽の全財産より高そうに見える。
名簿には〈リゼ〉とだけ書いた。
従者は〈オルド〉。
家名欄は空白。
旅札係が指摘すると、リゼは当然のように言った。
「家名は長いの。書いている間に霧が晴れるわ」
「晴れても書いてください」
係は筆を返した。
リゼは従者を見る。
オルドが無言で長い家名を書き、上から旅行用の略称印を押す。家名そのものは、尽の席から読めなかった。
次は武器封印。
「これは護身用よ」
「全員そう言います」
「抜かないわ」
「なら封印紐があっても困りません」
剣の柄と鞘へ青紐が通された。
リゼの眉が、少しずつ上がる。
尽は視線を外した。
黒枝で工具袋へ灰紐を通された時の自分も、似た顔をしていたかもしれない。
商旅が旧索路へ入ると、霧濃度札は灰のまま安定した。
観測器は東関へ残してあるため、尽が読む三針はない。契約の延長分は、路杭通過時刻、触導索の振動、迂回路の荷台傾斜を記録する。
丸節の進行索。
角節の帰路索。
帰路では、角節を握る。
尽は指で形を確かめた。
向かいのリゼは、索に触れようとしない。
「手袋が汚れるわ」
ヴァルガが足を止めた。
「握れ」
「見えているでしょう」
「今はな」
「私なら、霧が濃くなっても風で払える」
「払うな」
「どうして?」
「路杭音が散る。霧顎が振動を追う。風向き次第で後続車へ霧を押す」
リゼは不満そうに索をつまんだ。
握るのではなく、指先だけ。
ヴァルガがその手を見た。
リゼは、ようやく掌で縄を掴んだ。
「王都では、こんな古い縄に頼らないわ」
「ここは王都ではない」
「だから遅いのよ」
従者のオルドは、一言も口を挟まない。
ただ、彼の足元の影だけが、霧の流れと逆へ一度揺れた。
尽は目を凝らした。
次に見た時は、普通の影だった。
第一退避柵までは問題なく進んだ。
そこに、別の小型車が止まっていた。
車輪故障ではない。
柵の外、旧索路の縁に、幅二歩ほどの沈みが見つかったため、路守が地面を検査している。
深さは浅い。
荷車がすぐ落ちるほどではない。
だが縁の下が空洞なら、重量を載せた時に崩れる。
探り棒を刺す。
一本目、浅い。
二本目、浅い。
三本目だけ、半分まで入った。
ヴァルガは続行を許可しない。
「また待つの?」
リゼが柵の中から言った。
「表面を固めれば済むでしょう」
「地下の範囲を測る」
「それより早いわ」
リゼは手袋を外し、柵の隙間から地面へ掌を向けた。
青白い光が指の間へ集まる。
尽が止める前に、短い言葉が発せられた。
沈みの表面が凍った。
霜が円形に広がり、柔らかかった黒土が白く硬くなる。
魔法は見事だった。
柵内の何人かが感嘆の声を上げる。
リゼは顎を上げた。
「これで通れるでしょう」
ヴァルガは怒鳴らなかった。
「誰が術を使えと言った」
「道を直したのよ」
「表面を凍らせた。地下は測っていない」
「私の氷が、荷車一台で割れると?」
「分からん。だから測る」
リゼは柵を出ようとした。
青紐を通された剣が柵へ当たる。
オルドが初めて動き、彼女の肩を止めた。
「お嬢様。路守の管轄です」
「あなたまで?」
尽は凍った面を見た。
中央は白い。
右端だけ、色が薄い。
地面そのものではなく、霜の厚みが違う。
凍結術は表面の水分を固めた。水分の少ない場所は薄い。地下空洞の位置と一致するとは限らないが、少なくとも均一ではない。
「試験板を載せるなら、中央だけでは足りません」
リゼが振り返る。
「誰?」
「記録補助です」
「魔法使いではないのね」
「はい」
「なら、私の氷に口を出さないで」
「氷の強さは分かりません。荷車の車輪は中央だけを通らない、と言っています」
路守が持ってきた荷重板は、荷車の片輪と同じ幅だった。
まず中央へ置く。
砂袋一つ。
二つ。
三つ。
凍面は割れない。
リゼが微笑む。
次に、右端へ半分ずらす。
砂袋一つ。
薄い音がした。
二つ目を載せる前に、ヴァルガが止める。
凍面の下から、黒い水が細く染み出した。
探り棒を別角度から入れる。
右端の下に、横へ伸びる空洞。
表面は硬い。
荷重を受ける土がない。
リゼは口を閉じた。
「私の氷が弱いわけじゃないわ」
「弱いとは言っていません」と尽は答えた。「下がありません」
柵内で、誰かが咳払いをした。
笑いを隠したらしい。
リゼの短い角の根元が、少し赤くなった。
ヴァルガは凍面を壊さず、赤札で囲った。
勝手な術で状況が変わったため、元の水分状態は測れなくなった。迂回路のさらに外側へ、仮の一車線を作る必要がある。
待ち時間は、むしろ一鐘増えた。
「直そうとしたのよ」
リゼが低く言う。
「善意は記録欄にならん」とヴァルガは答えた。「術者名と変更内容を書け」
リゼは名簿の略称を指す。
「リゼでいいわ」
「家名もだ」
従者が小声で何か告げる。
二人はしばらく睨み合った。
結局、オルドが事故記録用の正式名欄へ長い文字を書いた。折り返して封をし、路守責任者だけが読める形にする。
尽には見えなかった。
仮車線は、凍らせて作らなかった。
空洞の外を探り棒で測り、短い板を何枚も渡し、最も重い荷車を最後に通す。全車が抜けた後、板は回収せず、赤札と路杭を残した。
再び動き始めた商旅で、リゼは尽の向かいへ座った。
「あなた、名前は?」
「風間尽です」
「変な名前」
「リゼさんも、僕の国では珍しいです」
「私の名前は珍しいんじゃなくて、高貴なの」
オルドが咳払いした。
「高価、の間違いでは」と尽が言う。
リゼは三呼吸ほど考えた。
「今、馬鹿にした?」
「意味を確認しました」
彼女は怒るかと思った。
ところが、急に笑った。
「面白いわね、あなた。魔法は弱いのに、口は逃げない」
「逃げたら膝を悪くします」
「そこ?」
旧索路の角節が、車体の横で一定の間隔を刻む。
商旅はそれ以上止まらず、霧の薄い区域へ出た。
セレヌ門の塔が見える頃、ヴァルガは帰路記録を締めた。
第七码庫照合完了。
二十三号本道停止継続。
旧索路浅沈下一か所。
旅客による無許可凍結一件。
仮車線通過。
人員、荷、観測記録、すべて帰着。
最後の一行だけで見れば、成功だった。
途中には、余計な一鐘が挟まっている。
リゼは記録板を見て、少し不満そうに言った。
「私の魔法も書くの?」
「書く」とヴァルガ。
「役に立とうとしたことも?」
「それは、おまえが自分の日記に書け」
尽は横を向いた。
今度こそ、笑わないためだった。




