第三十六話 白い頁は、同じ本から落ちたのか
次の診療鐘で、尽の左膝の熱は下がっていた。
腫れなし。
三角痛なし。
歩行は許可。
ただし第七码庫までの小型車では、足を下ろして座る。資料閲覧は一鐘ごとに立って休む。書庫の階段は使わない。
診療師は、通行札の裏へ条件を書いた。
「本を読むだけなのに、階段があるんですか」
「本は上にも下にも置かれる」
「一階の物だけでは」
「書庫番に運ばせる。勝手に取りに行くな」
尽の仕事は観測記録補助であって、荷物運びではない。
古い本も運ばない。
夜牙第七码庫へ向かう小型車には、ヴァルガ、もう一人の路守、影獣、尽の四人が乗った。
再調整を終えた霧路観測器は東関に残る。
本道二十三号の修復計画ができるまで、現場へ戻さない。
尽は昨日までの記録板を東関の書記へ渡した。
仕事の第一段階は完了。
第七码庫で担当するのは、過去の路杭番号と観測記録の対応確認だけだ。
書庫は森の奥の塔ではなかった。
低い丘を掘り、黒い石で入口を固めた半地下の建物だった。霧が外壁へ触れると、細い溝を通って左右へ流れる。扉は木ではなく、幾層もの革と金属網で作られている。
火を避けるため。
湿気を入れないため。
虫を持ち込まないため。
入口で外套を払い、靴底を乾燥砂へ押し、所持品を申告する。
工具なし。
止まった腕時計。
防水布に包んだ白紙一枚。
布で覆った戒指。
筆記具は書庫指定の黒芯だけ。
私物の紙は閲覧室へ持ち込めない。
書庫番は、小柄な鼬族の老人だった。
名をロッカという。
鼻先に丸い透明板を掛け、尽の通行札を三度読み直した。
「十五歳」
「はい」
「境界外来訪」
「はい」
「雷で落ちた」
「雷に打たれたところまでは覚えています。落ちるところは」
「覚えていない、と」
ロッカは申述書へ、そのまま書いた。
〈落下過程、本人記憶なし〉
都合よく補ってはくれない。
氷風城から届いた発見記録も机にあった。
尽は氷風城外の斜面下で発見された。
服装は既知のどの地域とも一致せず。
所持金は雷姆利亚通貨に該当せず。
腕時計は停止。
紙袋と薄い食物片を所持。
周辺の通行記録なし。
ただし発見前の空間変化、雷鳴、落下を直接見た者はいない。
つまり、氷風城の記録が証明するのは、尽がそこにいたことだけだった。
「境落ち確定にはしない」とロッカが言う。「比較対象として読む。それでよいか」
「はい」
閲覧契約には、四つの制限があった。
実名は、本人が公開を許可した例だけ読む。
医療記録は、境落ち判定に関係する箇所のみ。
原本へ触れない。
写しは書庫番が選んだ範囲だけ。
尽は署名した。
最初の資料は、百七十二輪前。
輪は雷姆利亚の長い暦単位で、地球の年へ正確に換算できない。
発見者は夜牙の塩根採り。
発見場所は、落雷痕のある裸石地。
対象は成人男性。
言語不明。
右手に火傷。
所持品は、布服、革靴、金属と硝子の小型時具。
添付図には、丸い蓋の付いた時計のような物が描かれていた。
文字盤に十二の区切り。
二本の針。
側面に小さな竜頭らしき突起。
尽は自分の腕時計を思い浮かべた。
似ている。
だが雷姆利亚にも機械式の時具はある。十二分割も、地球だけの証拠ではない。
「現物は?」
「残っていない。移送先の診療所で分解され、その後の部品帳がない」
「本人は」
「言葉を覚える前に東関から移された。移送先は黒角王都の星環文庫」
帰還欄は空白。
死亡欄も空白。
王都へ行った後の記録が、この書庫に戻っていないだけだった。
二件目は、九十四輪前。
対象は年齢不詳の女性。
乾いた雷鳴の後、霧のない路上で倒れていた。
所持品は、薄い紙を綴じた冊子。
紙面には、この地方で使われない整った小文字が大量に並ぶ。頁の端には、赤と碧に見える変色があった。
冊子の大半は、移送後に文字を失った。
残ったのは、表紙の断片と、白くなった一頁。
尽の背中が冷たくなる。
「白い頁は、ここに?」
ロッカはすぐ出さなかった。
先に尽の白紙を、透明な保存板へ入れる。本人の前で封をし、番号を付ける。
次に、書庫の白頁片を別の保存板で運ばせた。
二枚は触れない。
同じ机の左右へ置かれる。
一見すると、どちらも古い白紙だった。
大きさは違う。
尽の頁の方が新しく見える。
繊維を拡大鏡で見ると、細い縦糸と横糸の交わり方が似ていた。ただし書庫片には、黒い植物繊維が多い。
同じ紙とは断定できない。
ロッカは赤い照明板を片側へ、碧い照明板を反対側へ置いた。
書庫片の縁に、かすかな二色の筋が浮かぶ。
尽の白頁にも、同じ位置ではないが、赤碧の薄い影が現れた。
戒指が布の下で、ほんの少し温かくなった。
尽はすぐ手を上げた。
「停止してください。指輪が熱を持ちました」
照明板が外される。
二枚の紙は別々の遮光箱へ戻された。
温度札が尽の戒指と保存板へ当てられる。
戒指は基準よりわずかに高い。
保存板は変化なし。
再試験はしない。
記録には、〈赤碧照明下で両紙片に縁影。本人指輪に微弱発熱。関係未確認。試験停止〉とだけ残す。
「同じ本ですか」
尽が尋ねる。
ロッカは鼻先の透明板を上げた。
「同じような作りの紙、とは言える。同じ本、同じ世界、同じ術具とは言えん」
期待していた答えではない。
信用できる答えだった。
女性は、夜牙で三輪暮らした。
名は、現地で〈ミア〉と名乗ったとある。本名か、聞き取れた一音かは不明。
彼女は紙の冊子を〈帰る場所を開く物〉と説明したらしい。
ただし、その説明は通訳を三人経て記録されている。
〈帰る場所の本〉なのか。
〈故郷で読んでいた本〉なのか。
原文がないため、確定できない。
ミアも後に、黒角王都の星環文庫へ移送された。
理由は、王都に異国文字と古い転移門を研究する者がいたから。
帰還欄は空白。
三件目は、六十一輪前。
十歳前後の子供。
発見時、言葉を話せず、炭で空の絵を描いた。
大きな太陽一つ。
小さな白い円一つ。
夜と思われる黒い面に、多数の点。
赤曜と碧曜の二つは描かれていない。
「地球の空に似ています」
「一つの恒星を回る世界なら、ほかにも似る」とロッカは言う。
子供はやがて夜牙の家庭に引き取られた。
成人後の記録もある。
農具職人になり、夜牙域内で婚姻。
王都へは行っていない。
帰還申請も出していない。
空欄は、帰れなかった証明ではない。
帰ろうとした記録がないのだ。
四件目は、三十九輪前。
対象は成人女性。
未知の星図を持ち、夜牙の星読みに自分の故郷を探させた。
星図は写しが残っている。
円弧。
点。
細い線。
地球の星座とは一致しない。
少なくとも、尽の知る範囲では。
彼女は黒角王都へ向かわず、西の氷山観測所へ移った。理由は、星の位置より二つの太陽の周期差を調べるため。
その後の記録は、矮人側にある可能性が高い。
四件を読み終えた。
地球から来たと断定できる者は、一人もいない。
帰ったと確認できる者もいない。
それでも、ミアの紙片は尽の白頁と似ていた。
赤碧の照明で縁影が出た。
彼女は、帰る場所を開く物だと説明したかもしれない。
そして黒角王都の星環文庫へ移された。
「星環文庫の記録を、ここから申請できますか」
ロッカは頷く。
「できる。だが王都文庫は、夜牙書庫より審査が厳しい。写しが来るか、本人を呼ぶか、断るかは向こうが決める」
「どのくらいかかりますか」
「早くて十潮。遅ければ一輪」
今の通行札は上限五潮。
待てない。
首都へ向かう権利もない。
手掛かりを見つけたからといって、次の扉が開くわけではなかった。
尽は星環文庫への照会だけを申請した。
返事の送付先は氷風城。
途中でセレヌ門に滞在していれば、そこにも写しを回す。
その時、閲覧室の外で警笛が鳴った。
短い三音。
東関からの連絡。
本道二十三号周辺で、霧穿ち穴がさらに二つ見つかった。帰路は旧索路を使う。出発は予定どおりだが、観測記録補助を一鐘延長する。
契約範囲内。
追加報酬あり。
通行札上限への影響なし。
尽は条件を確認し、延長へ署名した。
資料を読んでも、帰る仕事は残っている。
白頁は遮光箱から戻され、封番号を照合して尽へ返された。
彼は防水布へ包む。
同じ本から落ちた頁かもしれない。
違う本を、似た方法で作っただけかもしれない。
今は、どちらとも言えない。
ただ一つ、昨日までと違うことがある。
白い頁を持っていた者が、尽より前にもいた。
そしてその者の足跡は、黒角王都で途切れていた。




