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第三十五話 霧の道では、止まることも前進になる

セレヌ門を出て一鐘。


森の色が消え始めた。


黒い幹は灰色へ。


青緑の苔は白へ。


碧曜は空にあるはずなのに、光の輪郭まで薄くなる。


霧だった。


地面を這うだけではない。


木の上からも細い糸のように垂れ、風が吹くたび、商旅の前後を閉じていく。


御者が速度を落とした。


護衛は戦う準備をしない。


代わりに、客車の側面へ巻かれていた太い縄を外す。縄は前の荷車から最後尾まで通され、座席ごとの革輪へ繋がれた。


「触導索だ」


ヴァルガが乗客へ説明する。


「視界が荷車一台を切ったら、立たずにこれを握れ。索を二度引かれたら停止。三度なら退避箱へ移る。誰かが落としても拾うな」


尽は自分の革輪を確かめた。


外れ止めが一つ。


引く方向を示す切れ込みが二つ。


手袋をしていても分かる。


地図は畳んだ。


見えない道で、紙の上の線を眺めても商旅は動かせない。


代わりに、膝の下へ毛布を入れ、記録板を腿へ固定する。


霧路観測器は前の荷台にある。


透明な防湿幕の内側。


赤、碧、白の三本針は、客車からも小窓越しに読める。尽の仕事は一鐘ごとの値と、路杭を通過した時の偏りを記すことだった。


判断はしない。


進行命令も出さない。


一回目。


赤針、基準から左一。


碧針、中央。


白針、十三号音で右二、復帰まで四呼吸。


ヴァルガが復唱し、別の路守が時刻札へ刻む。


二回目。


赤針、左一。


碧針、中央から右半分。


白針、十四号音で右一、復帰三呼吸。


装置は動いている。


少なくとも、セレヌ門の整備場で見た十二呼吸ごとの勝手な跳ねはない。


道の両側から、路杭の音が聞こえた。


高い二音。


低い一音。


時々、耳では聞こえない低振動板が触導索を震わせる。


尽の指へ、遠い太鼓のような揺れが伝わった。


「音が聞こえなくても、これで分かるんですね」


隣の路守が頷く。


「人族は高音を拾いやすい。夜行獣族は低音。影獣は息と熱。どれか一つが使えなくても進めるようにする」


観測器だけを信用しない。


耳だけも、目だけも信用しない。


違う感覚を重ね、同じ道を探す。


商旅は第一退避柵で止まった。


黒枝の休止柵より小さい。荷車三台がぎりぎり入り、門を閉じると外の霧が木板の隙間から細く流れ込む。


乗客は降りない。


ヴァルガたちが車輪、触導索、霧濃度札を確認する。


濃度札は、白から灰、碧、黒へ変わる。今は灰。


続行できる範囲だった。


尽は座ったまま膝を曲げ伸ばしする。


腫れなし。


熱なし。


三角痛なし。


記録へ丸を三つ付ける。


「自分の脚にも点検札か」


ヴァルガが小窓から覗く。


「途中で壊れたら、交換部品がありません」


「人の脚を部品と呼ぶ奴は初めて見た」


「交換できない部品です」


「それは部品とは言わん」


正論だった。


退避柵を出ると、霧はさらに濃くなった。


先頭の荷車が、半分しか見えない。


触導索が一度、強く張る。


全員が握り直した。


路杭二十一号。


高音は正常。


低音もある。


白針は右一。


二十二号。


高音が一つ足りない。


白針は動くが、戻りが遅い。


二十三号。


音がない。


白針も、ほとんど動かない。


触導索が二度引かれた。


商旅が止まる。


尽は立たない。


記録板へ、停止時刻と三針の位置を書く。


赤針、左一。


碧針、右半分。


白針、中央。


装置の台座傾斜札も基準内。


「観測器が止まったわけではありません」


尽が読み上げる。


「赤と碧は、前と同じです。白だけ入力が弱い」


ヴァルガは返事の代わりに、路守へ手信号を送った。


一人が影獣の首輪を外す。


黒い影獣は霧へ鼻を向け、六つの孔を開閉した。目は閉じたまま。触導索から離れず、前方へ十歩だけ進む。


もう一人の路守は、腰の小鐘を鳴らした。


返答がない。


二度目。


遠くで、低い金属音。


正規の路杭音ではない。


何かが地面へ擦れている。


「二十三号が倒れている」


霧の中から声が戻る。


「索は繋がっている。杭の根が浮いた。周囲に新しい穴」


ヴァルガは乗客へ説明した。


霧穿ちという小型の森獣が、地中の塩根を食べた跡らしい。人を襲う獣ではない。だが群れで掘れば、路杭と道路の縁を沈ませる。


「直して進みますか」


尽が聞く。


「ここでは直さない」


「路杭がないまま?」


「杭一本なら補助音を置ける。穴の範囲が分からん。荷車ごと沈む方が悪い」


ヴァルガは地面へ長い探り棒を入れさせた。


棒は二か所で深く沈んだ。


本道は使用停止。


商旅を後退させ、二十二号手前の分岐から旧索路へ移す。


引き返しではない。


安全が確認された別路へ回る。


だが旧索路へ入るには、荷車を一台ずつ向き直さなければならない。


乗客は座ったまま待つ。


尽の役目は、観測器の針を記録し続けることだった。


後退時、赤針が右へ一。


碧針は変わらない。


白針は二十二号音を再び拾う。


地球の車なら、バックしている間に方位の読み方も逆になる。


この装置では、赤と碧は環境方向を、白は路標との関係を示す。


車体の前後だけで単純に反転しない。


尽は自分の知識で勝手に符号を変えず、見えた位置をそのまま書いた。


旧索路の入口には、太い縄ではなく二本の細索が張られていた。


一本は進行。


一本は帰路。


触る位置を間違えないよう、進行索には丸い節、帰路索には角のある節が刻まれている。


ヴァルガは全員へ一つずつ触らせた。


「丸を握れ。角は戻る時に使う」


尽は丸い節を確かめた。


霧の中で色は役に立たない。


形なら、目を閉じても分かる。


商旅が旧索路へ入った直後、影獣が低く唸った。


護衛の槍が上がる。


戦う合図ではない。


息を抑え、音を出すなという合図だった。


霧の向こうに、大きな影が現れた。


荷車より高い。


丸い背。


長い首。


頭の左右に、扇のような器官が開いている。


霧顎。


音を食べる大型の森獣だと、隣の路守が唇だけで告げた。


人を好んで襲うわけではない。


大きな音源を縄張りの競争相手とみなし、踏み潰すことがある。


護衛は弩を向けない。


路守の一人が、商旅から離れた反対側へ小さな振動杭を投げた。


杭が地面へ刺さり、低い音を刻む。


霧顎の扇が、その方角へ向いた。


一歩。


二歩。


巨大な影が旧索路から離れていく。


ヴァルガは、まだ進行を命じない。


振動杭の音が遠ざかり、影獣の唸りが止まり、霧濃度札が黒へ変わっていないことを確認する。


それから、商旅を最低速で動かした。


尽は記録板を握ったまま、息を吐いた。


戦わなかった。


誰も魔法を撃たなかった。


だから弱いわけではない。


荷と人を目的地へ届けるなら、勝つ必要のない相手と戦わない方がいい。


旧索路を抜ける頃、霧は少し薄くなった。


観測器の白針が、二十四号の補助音を拾う。


右二。


三呼吸で復帰。


正常範囲。


尽は値を読み上げた。


ヴァルガが復唱する。


本道二十三号は、使用停止。


霧穿ち穴の範囲未確認。


旧索路へ迂回。


霧顎一頭、振動杭で誘導。交戦なし。


人員異常なし。


荷車異常なし。


観測器、三針記録継続。


一つずつ、事実が残される。


夜牙東関へ着いた時、尽の膝は少し重かった。


痛みではない。


だが診療所で測ると、左が右より指半分だけ熱い。


診療師は移動停止までは命じず、次の一鐘は歩行を減らすよう札を付けた。


第七码庫へは、すぐ行かない。


東関の宿で休み、再検査後に移動する。


尽は反論しなかった。


目の前まで来て、急いで膝を悪くすれば、資料を読む前に戻される。


東関の壁は低く、厚かった。


外側には霧を切る櫛状の塔。


内側には路杭音板が何十枚も吊られ、風向きごとに鳴る組み合わせが変わる。


夜牙第七码庫は、その壁のさらに向こう。


今は見えない。


尽は宿の寝台へ座り、地図の黒線へ小さな丸を付けた。


夜牙東関。


一度止まった。


一度迂回した。


一度も戦わなかった。


それでも、確かに前へ進んでいた。


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