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第三十四話 引き返せる者だけが、先へ行ける

尽は、氷風城行きの空席を辞退した。


理由は夜牙へ行くためではない。


許可条件を最後まで確かめるため、あと一潮だけセレヌ門に残る。


四潮後の固定席は維持する。


その一潮で条件が揃わなければ、帰る。


返程窓口の係員は、何度も念を押した。


「取消待ちの席を一度辞退したら、同じ便へ戻れない」


「分かっています」


「固定便は次の双曜潮末。出発鐘に遅れれば失効」


「はい」


「夜牙の許可が取り消されても、辞退席は戻らない」


「はい」


尽が署名すると、空席は次の待機者へ回った。


掲示板から自分の名が消える。


胸の奥が少し痛んだ。


帰れる席だった。


自分で手放した。


だが帰り道そのものを捨てたわけではない。


尽はその足で、伝書窓口へ行った。


氷風城への文は、前回より長くなった。


境落ち記録が見つかったこと。


四件だけ部分閲覧を許されたこと。


原本は夜牙第七码庫から移せないこと。


最短三潮、上限五潮。


現在の保証旅札と固定帰路席。


自分は早い空席を辞退したが、まだ夜牙行きを決めていないこと。


最後に、判断条件を並べる。


正規商旅。


名のある護衛。


往復費用。


旅札延長。


膝の停止条件。


書庫の閲覧範囲。


途中で戻れる場所。


〈条件が揃わなければ、次の固定便で帰ります。意見をください。〉


伝書翼が飛び立つ。


返事は早くても一潮後。


固定便の出発鐘まで、ほとんど余裕がない。


だから待つ間に、他の条件を集めた。


まず商旅。


夜牙第七码庫へ直接行く定期便はない。セレヌ門から〈夜牙東関〉まで大型商旅に乗り、そこで路守の小型車へ乗り換える。


往路一潮。


帰路一潮。


東関には壁、宿、診療所、伝書所がある。


第七码庫は東関の外だが、路守柵に囲まれている。


森の中へ単独で歩く区間はない。


次に護衛。


大型商旅はセレヌ門の商路護衛が担当。


東関からはヴァルガを含む夜牙路守三名と影獣一頭。


護衛契約は乗客全体。尽だけを守る契約ではない。


勝手に列を離れれば対象外。


霧が基準を超えた場合、進まず東関へ戻る。


次に費用。


往復切符。


東関宿一泊分。


閲覧料。


写しが許可された場合の紙代。


尽の財布では足りなかった。


食事を抜けば届く、という計算にもならない。


そもそも食事を抜く計画は、メルダに見せた瞬間破り捨てられる。


「足りないなら、行けません」


尽が言うと、ヴァルガは机へ一枚の仕事札を置いた。


〈夜牙路守・観測記録補助〉


第七码庫へ運ぶ霧路観測器の再調整記録と、交換予定の路杭番号照合。


行程中に装置へ触れない。


現地で読み上げと記帳。


契約期間三潮。霧待機が生じた場合は五潮まで延長し、延長食費と宿は路守負担。


報酬は、往復切符と東関宿代を差し引いても、閲覧料が残る額。


「僕が資料を読みたいから、仕事を作ったんですか」


「違う」


ヴァルガは即答した。


「観測器を直した後、昨日と同じ順で記録できる者が必要だ。ナージャは町を離れられん。セアドには門番がある。夜牙の書記は一人、脚を折って療養中」


「僕が断ったら」


「東関の若い路守にやらせる。数字は読めるが、空欄を勝手に埋める」


「それは、困りますね」


「困る。だが、おまえが来なければ道を閉じるほどではない」


必要ではある。


唯一ではない。


その方が、尽には受けやすかった。


仕事札は、すぐ署名せず写しだけ受け取った。


次に旅札。


現在のセレヌ門滞在許可は、固定便の出発まで。


夜牙へ行くなら、境落ち資料照合を目的とする短期通行札へ切り替える。上限五潮。第七码庫と指定宿以外への立入不可。碧暮奥地や首都へ進む権利は含まれない。


帰路はセレヌ門まで。


そこから氷風城行きの席は、改めて予約する。


固定席を手放すことになる。


返金は半額。


帰りの保証は旅札ではなく、別の切符で買わなければならない。


最後に医療。


東関診療所へ、尽の膝の簡易記録を送る。


長距離は荷車座席。


一鐘ごとに下車して状態確認。


腫れ、熱、三角痛のいずれかが出れば、その日の移動停止。


走行禁止。


荷運び禁止。


路杭作業の現場へ降りる必要はない。


メルダが書いた条件と、ほとんど同じだった。


条件は揃いつつある。


それでも、氷風城からの返事がない。


尽は若葉寝台へ戻った。


固定便の出発まで、一潮。


荷物を二つに分ける。


帰る場合。


夜牙へ行く場合。


どちらでも工具は最小限。観測記録の仕事では使わないため、重い小槌と長いやすりは宿の保管棚へ預け、氷風城への返送を頼める。


白紙一枚は、防水布へ包む。


止まった腕時計も持つ。


境落ち事例の所持品と比較するためだ。


戒指は外さない。


ただし観測器から二歩離す条件を継続する。


食料は、路守支給分と予備一食。


薯片はない。


ない物は、何度確認しても増えない。


休息鐘が鳴った。


返事は来ない。


次の活動鐘。


まだ来ない。


尽は固定便へ乗る荷物を持ち、連絡所へ向かった。


返事がなければ帰る。


そう決めていた。


荷門の出発鐘まで、あと一鐘。


伝書塔の上で、翼音がした。


灰色の伝書翼が一羽、風を切って降りてくる。


尾筒には氷風城の赤白紐。


返書は三枚だった。


メルダ。


〈膝の条件を一つでも削るなら帰りなさい。全部残るなら、私から止める理由はありません。痛みを隠した時点で許可は終わりです。〉


ボルン。


〈行程図を身体の向きと合わせろ。霧で見えない時は進むな。路守の停止命令を、自分の判断で上書きするな。〉


グランドーガ。


文は一番短かった。


〈手掛かりは、帰り道ではない。だが調べなければ、道かどうかも分からん。名のある同行者、戻る契約、払える費用、止まる権利。その四つが紙にあるなら、おまえが決めろ。〉


その下に追記。


〈帰ってきた時、紹介状はまだ有効だ。赤縁へ行く道を失ったと思うな。〉


許可ではない。


命令でもない。


条件を満たした後の決定を、尽へ返す言葉だった。


尽は三枚を仕事札の横へ並べた。


同行者。


ヴァルガ以下、路守三名。商旅護衛。


戻る契約。


霧待機を含む上限五潮。セレヌ門帰着まで。


払える費用。


仕事報酬で往復、宿、閲覧料。予備金は残る。


止まる権利。


膝、霧、装置異常、護衛変更。本人も申告できる。


四つとも、紙にある。


尽は固定帰路便の窓口へ行った。


「予約を取り消します」


係員は理由を聞かない。


半額返金額と、次に氷風城へ戻る時の予約方法を説明する。尽は受け取り札へ署名した。


次に旅札窓口。


セレヌ門滞在札から、夜牙第七码庫短期照合札へ切り替える。


上限五潮。


指定路外無効。


首都通行権なし。


最後に、観測記録補助の仕事札へ署名した。


ヴァルガが確認印を押す。


「まだ引き返せる」と彼女は言った。


「署名した後でも?」


「出発鐘までは取消料だけ。東関へ着いた後でも、書庫へ入らず帰れる。霧路へ入ってから勝手に降りるのだけは駄目だ」


尽は頷いた。


先へ行くと決めた。


それでも、引き返せる場所を消さない。


それは覚悟が足りないのではない。


戻れる者だけが、次の選択を持てる。


荷門の外で、夜牙行き商旅が待っていた。


黒い天幕。


前後に護衛。


側面には、霧の中でも触って辿れる太い縄。


荷台の中央には、再調整を終えた霧路観測器が固定されている。


赤、碧、白の三本針は、今は静かだった。


尽は客車へ乗り、地図の上端へ新しい黒糸を結んだ。


赤は氷風城。


碧はセレヌ門。


黒は夜牙東関。


色を増やしても、道が正しくなるわけではない。


確認する場所が増えるだけだ。


出発鐘が鳴る。


商旅が東門を抜けた。


尽は一度、セレヌ門を振り返る。


帰る席を手放した町が、城壁の向こうへ隠れていく。


その先にあるのは、帰り道ではないかもしれない。


それでも初めて、自分がここへ落ちた理由へ向かって進んでいる気がした。

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