第三十三話 帰る席と、読めない記録
返事を待つ間、尽は町の鐘を覚えた。
低い一打は荷門。
短い二打は水路。
三打の後に長く響く音は、碧曜の雲隠れを知らせる。
若葉寝台の食事鐘は、鍋の蓋を三度叩くだけだった。
最初は全部同じに聞こえた。
一潮暮らすと、聞き分けられるものが増えた。
逆に、分からない音も増えた。
路地の向こうで鳴る細い鈴。
屋根の上を走る足音。
水路から聞こえる、誰かの笑い声に似た反響。
尽が宿主へ尋ねると、細い鈴は焼き菓子売り、足音は伝書獣、水路の声は風抜き管だと言われた。
「三つ目だけ、本当に管ですか」
「確認しに入るなら、先に宿代を払っておくれ」
尽は確認しなかった。
返程掲示板は、取消待ち一番のまま。
夜牙からの回答も、まだない。
何もしないで待てば、宿代だけが減る。
尽は連絡所の仕事壁から、半潮以内で終わる札を探した。
前回の測定補助より地味な仕事がある。
〈路杭音板・洗浄後の番号照合。読み上げのみ。手袋支給。〉
鈴喰い鹿が落とした薄板も含まれていた。
仕事場は北整備場ではなく、水門脇の石槽場だった。
洗浄を終えた音板が、木枠へ一枚ずつ吊られている。高音板、低音板、低振動板。見た目は似ているが、縁の切れ込みと裏面の点刻が違う。
尽の役割は、洗浄係が読み上げる路杭番号と、板の点刻を照合すること。
自分で音を鳴らしてはいけない。
板の種類によっては、虫や獣を寄せる音になる。
「町の中なのに?」
洗浄係の老人は、水槽へ蓋をしながら言った。
「町の中だからだ。森より餌が多い」
番号十三。
高音二枚。
低音一枚。
裏面の白い塩粉は洗い落とされ、吸血虫もいない。だが一枚だけ、縁に細い割れが残っていた。
尽は不良と決めず、黄色い紐を掛ける。
音を測る係が別室で確認し、交換か再加工かを決める。
番号二十七。
三枚とも点刻は合う。
ところが木枠の札には二十六と書かれていた。
「札違いです」
老人は板を見て、札を見た。
「昨日、二十六の枠が足りなくなった。空いていた二十七を使った」
「記録は」
「今、書く」
悪意ではない。
作業を止めないための仮置きだった。
ただ、今書かなければ、次の者には二十七号の板に見える。
老人は〈仮枠使用〉の赤札を追加し、帳面へ時刻を残した。
「あんた、細かいな」
「細かく見ないと、僕は別の国へ行きます」
「板一枚でか」
「地図一枚で行きました」
老人は声を上げて笑った。
半潮の仕事で得たのは、食事二回分。
宿へ戻る途中、尽は広場で人だかりを見つけた。
喧嘩ではない。
石床に七つの円が描かれ、子供から大人まで、その外側へ並んでいる。中央には、指先ほどの白石。角族の女性が一人ずつ名前を呼び、石へ手を近づけさせていた。
看板には〈生活術・初歩公開練習〉とある。
旅人も参加可。
初回は銅貨一枚。
尽は立ち止まった。
氷風城では二十二回、練習石に触れた。
最後には、白い糸のような反応が時々出た。
別の土地、別の方法なら、何が変わるのか。
財布を見る。
食事一回より少し安い。
受付で保証旅札を見せ、膝と未知の戒指について申告する。指導者は戒指を布袋へ入れ、円の外の木箱へ預けるよう求めた。
「触れないなら、首から下げても同じでは?」
「同じかどうか分からないから、離す」
ナージャと同じ答えだった。
練習は、火球を飛ばすものではなかった。
白石の温度を、指一本分だけ上げる。
水膜を、石の端へ寄せる。
灯粉を、鼻息で飛ばさず光らせる。
生活魔法の三つ。
最初の角族の少年は、白石から湯気を出した。
「上げすぎ。料理場なら鍋底を焦がす」と指導者が言う。
次の羽族の少女は、水膜を全部床へ落とした。
「風を混ぜた。水だけ動かす」
獣族の幼い子は、灯粉へ鼻を近づけすぎて、くしゃみで円の外まで吹き飛ばした。
周囲が笑う。
本人も笑っている。
尽の番になった。
最初は白石。
呼吸を整え、手を近づける。
何も起きない。
氷風城で習ったように、食事、睡眠、力みを確認する。
もう一度。
白石の端に、細い白線が現れた。
一呼吸で消える。
湯気は出ない。
温度札も動かない。
「光った」と後ろの子供が言う。
指導者は、すぐ成功印を付けなかった。
石を交換する。
尽の立つ円を替える。
手を左右入れ替える。
六回のうち、二回だけ白線。
「微弱反応。熱術とは未確認」
「失敗ですか」
「石を温める課題としては失敗。反応検出としては、次へ進める」
水膜は動かなかった。
灯粉も光らなかった。
最後に鼻息で少し飛んだ。
獣族の子が真面目な顔で助言する。
「鼻、遠くする」
「ありがとう」
十五歳の尽は、五歳くらいの子に頭を下げた。
公開練習の記録札には、〈白線二/六、発熱なし、移水なし、発光なし〉と書かれた。
氷風城の二十二回と大きく変わらない。
別の地域へ来ただけで、才能が開花することはなかった。
ただ、ここでは魔法が戦う力だけではないと分かった。
鍋を温めすぎない。
洗い水をこぼさない。
暗い廊下で粉を光らせる。
地味だ。
地味だから、生活になる。
練習後、指導者は参加者を三組に分けた。
成功した者。
反応はあるが課題と違う者。
何も検出できなかった者。
優秀、普通、落第ではない。
次に同じ練習をしてよいかを分ける組だった。
白石から湯気を出した角族の少年は、成功組ではなく二番目へ回された。熱量が大きすぎ、家庭の加熱板で使えば火傷させるからだ。水膜を床へ落とした羽族の少女も、風を止める練習からやり直す。
尽は二番目だった。
白線が本人の微弱魔力なら、熱術を繰り返しても石は温まらない。まず同じ白線を意図して出せるかを調べる。次回は温度石ではなく、入力の有無だけを示す無色板を使うという。
「強く出せばいいんじゃないんですか」
尽が尋ねると、指導者は首を横へ振った。
「強さを出せる者が、弱く出せるとは限らない。生活術で必要なのは最大ではなく、毎回同じところで止めること」
氷風城の水量計を思い出した。
水を多く出せることと、必要な量で止められることは違う。
魔法も同じらしい。
公開練習は次の双曜潮にもある。だが尽は継続札を買わなかった。帰路か夜牙行きかが決まっていない今、先に予定を入れるべきではない。
代わりに今回の測定札だけを受け取った。
白線二回。
再現率は六回中二回。
用途は未確認。
数字になっても、能力になったわけではない。
戒指を返してもらい、宿へ戻ろうとした時、荷門の鐘が鳴った。
続いて、連絡所の伝書鐘。
若葉寝台へ着く前に、使いが尽を見つけた。
木札が二枚ある。
一枚目。
〈氷風城行き・取消一席発生。風間尽、乗車可。次の出発鐘までに回答。〉
帰れる。
二潮後の便に、一席空いた。
二枚目。
〈夜牙第七码庫・境落ち記録、部分閲覧を条件付き許可。原本移送不可。本人照合を要す。〉
読める。
ただし、ここでは読めない。
二つの札が、同じ手に載っていた。
尽は連絡所へ急いだ。
走らない。
走れないからではない。
今は、急いで転ぶ方が二つとも失う。
夜牙から届いた許可書には、索引の一部が添えられていた。
十一件のうち、閲覧対象は四件。
いずれも出身地不明。
一件は、落雷痕のある石地で発見。
一件は、読めない薄紙の束を所持。
一件は、金属と硝子で作られた小型時具を所持。
一件は、知らない星の並びを描いた。
同一人物ではない。
年代も離れている。
紙の束が本なのか、時具が時計なのか、索引だけでは分からない。
そして四件とも、帰還確認欄は空白。
閲覧場所は、夜牙第七码庫。
原本が脆く、写しを作れる者も現地の書庫番に限られる。個人の来歴を含むため、申請者本人と保証人の照合が必要。
セレヌ門から第七码庫までは、正規商旅で一潮。
閲覧と照合に一潮。
戻りに一潮。
最短三潮。
天候や霧路閉鎖を含む許可上限は五潮。
今から行けば、四潮後の固定帰路便にも間に合わない。
尽は帰路窓口を見る。
空いた席の回答期限は、次の出発鐘。
それを逃しても、四潮後の固定席はまだ残る。
今日、決めなければならないのは一つだけ。
早い便で帰るか。
許可条件を確かめるため、あと一潮ここに残るか。
夜牙へ行くかどうかは、まだ決めなくていい。
尽は空席札を握り、出発鐘の時刻を尋ねた。
残り、一鐘半。
読めない記録は逃げない。
だが次に許可が出る保証はない。
帰る席も、待ってはくれなかった。




