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第三十二話 落ちてきた者には、帰還欄がない

次の活動鐘で、取消待ちは一番になった。


最初に待っていた羽族が、荷の都合で四潮後の便へ変更したという。


あと一席空けば、尽は二潮後に氷風城へ戻れる。


固定予約も消えていない。


帰り道は、ちゃんと残っている。


だから尽は、記録照合の招集札へ署名した。


連絡所内。


一鐘。


帰路便の空席が出れば途中退席可。


装置へは近づかない。


昨日より条件が一つ増えていた。


〈夜牙路守の記録は閲覧範囲を指定する。私的な書写禁止。〉


尽は自分の記録帳を宿の棚へ置いてきた。


記憶だけで持ち帰ろうとするのも、規則の抜け道になる。必要な数字は、連絡所の板にだけ書く。


夜牙外縁から来た路守は、背の高い女性だった。


肌は濃い灰色。


黒髪の間から、後ろへ湾曲した二本角が伸びている。右角の先は欠け、銀の覆いがはめられていた。厚い外套には乾いた泥と、細い白糸が何本も付いている。


名はヴァルガ。


彼女は挨拶を終えると、机へ三冊の帳面を置いた。


一冊目は観測器の毎潮記録。


二冊目は路杭の修繕記録。


三冊目は霧と森獣の出現記録。


「故障した日の数字だけ見ても分からん」とヴァルガは言う。「前の正常と、次の異常と、その間に何を省いたかを見る」


尽は少しだけ驚いた。


グランドーガやボルンと、同じ言い方だった。


種族も地域も違う。


それでも、道具で人を帰す仕事をしている者は似るらしい。


照合は、白針の値から始まった。


正常時、白針は路杭十三、十四、十五号の基準音を順番に拾う。


霧が濃い時は十三号を弱く、十四号を強く、十五号を遅れて示す。


異常の最初は、十三号の音が消えた日ではなかった。


その二潮前。


白針が十二呼吸ごとに右へ跳ねている。


「昨日と同じです」


尽が読み上げる。


ナージャが、装置側の記録板へ印を付けた。


「巣殻が付く前から?」


「採取日は分からん」とヴァルガ。「だが、その日は感応片の清掃記録がある」


清掃担当者の署名もあった。


ただし、どの面を何枚清掃したかは書かれていない。


〈清掃済み〉の一語だけ。


氷風城の青辺布と同じだった。


作業をした事実はある。


中身が省かれている。


尽は勝手に「清掃不足」と書かず、欄へ黄色い線を引いた。


路杭の記録では、十三号が最初に傾き、二潮後に折れた。十四号は正常。十五号は音板を一枚交換している。


交換板は、旧板より薄い。


「十二呼吸ごとの跳ねは、十五号の新しい板では?」


セアドが聞く。


ヴァルガは首を振る。


「十五号は十七呼吸だ。風がなければ鳴らない」


「別の音が入っている」


ナージャが三冊目を開く。


同じ時期、路霧虫の群れが増えていた。


成虫は翅を震わせる。


その間隔が、十から十三呼吸。


白針は人工路標だけを拾うはずだった。


だが感応片へ巣殻が付着し、路霧虫の翅音まで基準音として取り込んだ可能性がある。


さらに台座が傾き、碧針も外れた。


路杭が折れ、最後の基準まで失った。


一つの大故障ではない。


小さなずれが順番に重なって、装置はどれを道と呼ぶべきか分からなくなった。


「修理できますか」


尽が尋ねる。


「器械はできる」とナージャは答えた。「巣殻を除き、台座を調整し、感応片を再同調する。だが路杭を戻さなければ、正しい音そのものが足りない」


「十三号の場所は霧溜まりになった」とヴァルガが言う。「同じ場所へ立てれば、また折れる」


必要なのは、装置だけの修理ではない。


道のどこへ、どんな間隔で、何の音を置き直すか。


現地調査が要る。


尽の役割は、そこまでだった。


彼は照合板をナージャへ返す。


一鐘の半分が残っている。


ヴァルガは三冊を閉じかけ、ふと、一冊目の後ろへ挟まった紙片を見た。


「これは違う」


抜き出された紙は、観測帳より古い。


端が茶色く、文字の形も少し違う。昨日送る帳面を束ねた際、誤って混ざったらしい。


表題は、尽にも読めた。


〈境落ち事例・帰路照合〉


呼吸が止まりかけた。


「境落ち、とは何ですか」


ヴァルガは紙を裏返す。


「霧路の古い呼び方だ。門も船も使わず、知らん場所から落ちてくる物や者」


「人も?」


「記録ではな」


尽は机へ手をつかなかった。


声を急がせないようにする。


「どこから来た人ですか」


「分からんから境落ちだ」


「帰った記録は」


ヴァルガは紙片を見る。


そこには六つの欄がある。


発見位置。


発見状態。


所持品。


言語。


移送先。


帰路照合。


最後の欄は、三件とも空白だった。


尽の胸の内に、冷たいものが落ちた。


空白は、帰れなかったという意味ではない。


記録がない。


確認できない。


今までなら、そう書く。


それでも期待した分だけ、空欄は重かった。


「この紙は、どこにあったんですか」


「夜牙第七码庫。霧路帳の古箱だ」


「ほかにもありますか」


「索引には十一件。紙が残っているのは、いくつか分からん」


ナージャが紙へ触れず、表題を読む。


「霧路観測器と境落ちは、関係があるの?」


「この紙が混ざっただけなら、ない」


ヴァルガは即答した。


「古箱の棚が同じだった。観測器が境落ちを見つけた、と決めるな」


尽は頷いた。


関係があるとは、まだ言えない。


自分が雷に打たれ、電話亭から雷姆利亚へ来たこととも、同じ現象かは分からない。


それでも、ここには自分以外の「知らない場所から来た者」の記録がある。


初めて見つけた、帰り方へ繋がるかもしれない資料だった。


「閲覧できますか」


ヴァルガは尽を見る。


「夜牙の古記録だ。私が勝手に許可は出せん。炉環から閲覧照会を出すことはできる」


「返事は、どのくらいで」


「早ければ三潮。書庫番が外巡りなら五潮」


二潮後の取消待ちには間に合わないかもしれない。


四潮後の固定便とも重なる。


尽はすぐ申し込まなかった。


閲覧照会の条件を聞く。


申請理由。


本人の来歴。


保証人への通知。


写し取りの可否。


費用。


照会だけなら、セレヌ門から出る必要はない。


許可が出ても、資料をここへ送れるとは限らない。夜牙第七码庫へ来るよう求められる場合がある。


拒否される場合もある。


「私が境落ちだと書けば、どうなりますか」


ルノが旅札窓口から呼ばれた。


彼は尽の保証旅札と、古い紙片を別々に見る。


「今の旅札には〈境界外来訪〉とある。これは出身地を照合できないという意味で、境落ちを証明する札じゃない」


「変更は」


「証言と発見記録が要る。氷風城へ現れた時の記録を取り寄せる。変更中も旅札は有効。ただし古記録を読むためだけに、証明できない分類へ書き換えることはしない」


尽は安心した。


都合のよい名前を選べば、扉が開くわけではない。


まず氷風城へ事実照会を送る。


その返事と、尽自身の申述を添え、夜牙書庫へ閲覧申請を出す。


最短で三潮。


遅ければ六潮以上。


帰路便へ乗った後でも、返事は氷風城へ転送できる。ただし現地閲覧を求められれば、また来なければならない。


選択肢は二つではなかった。


今すぐ帰る。


セレヌ門で返事を待つ。


申請だけ出し、氷風城で待つ。


許可後に改めて来る。


夜牙へ行くことは、そのさらに先の選択だ。


尽は申請だけ出すと決めた。


二潮後の空席が出れば、帰る。


出なければ四潮後の固定便まで待つ。


その間に返事が来れば読む。


来なければ氷風城へ転送する。


帰路を捨てず、線索も捨てない。


申請文には、電話亭も雷も書いた。


昭和の日本。


神戸近郊。


落雷。


気がつけば氷風城外。


所持品は制服、菓子袋、腕時計、銀色の戒指、古書から抜けたような白紙一枚。


分からない箇所は、分からないままにした。


古い紙の三件と自分が同じ現象だとは書かない。


照合を求める、とだけ書く。


ヴァルガは申請の受取証へ署名した。


「書庫へ行くよう求められても、一人で来るな。第七码庫は町の外だ」


「護衛を雇います」


「雇える金があるならな」


財布を思い出した。


線索には、やはり食費が付いてくる。


照合の仕事が終わり、尽は連絡所を出た。


返程掲示板は、取消待ち一番のままだった。


宿へ戻れば寝台がある。


四潮後には固定便もある。


氷風城には、申請の写しが伝書翼で飛ぶ。


何も決まっていない。


だからこそ、今決めなくてよいことまで決める必要はなかった。


若葉寝台の食堂で、あの苦い青紫の葉がまた皿に載っていた。


尽は今度、煮豆の下へ隠した。


少しは、この町のやり方を覚えた。


窓の外では、碧曜が細い雲へ隠れる。


夜は来ない。


代わりに、遠い場所へ送られた質問の返事を待つ時間が始まった。

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