第三十一話 迷った針を、叩いて直してはいけない
若葉寝台へ戻ると、食堂の壁に新しい木札が掛かっていた。
〈氷風城行き・取消待ち二番、風間尽〉
一人、前へ進んでいる。
先に待っていた客が、別の商旅へ乗り換えたらしい。
空席が生まれたわけではない。
それでも順番は動いた。
尽は木札の刻印を確かめ、宿主へ尋ねた。
「この札は、毎潮変わりますか」
「変わった時だけだよ」
「変わらなかったら」
「同じ札を眺めて腹を減らすだけさ」
灰毛の老女は鍋の蓋を開けた。
煮豆と、薄い肉の匂いがする。
尽は食事札を一枚渡した。
昼の臨時仕事で得た報酬が、さっそく一食分消える。
働けば金が増え、食べれば減る。
異世界でも、そこだけは驚くほど分かりやすい。
皿には青紫の葉が添えられていた。
黒枝の緑茎を思い出し、尽は手を止める。
「これは食べられますか」
「食べられる」
「しびれませんか」
「苦いだけだ」
「どのくらい」
「食べれば分かる」
食べてみた。
分かった。
口の中が、薬箱になった。
向かいの獣族職人が笑い、葉を煮豆の下へ押し込む。
「汁と一緒ならましだ」
「先に教えてください」
「先に聞いたら、食わなかっただろ」
否定できない。
食事を終える頃、宿の入口で二度、金具が鳴った。
炉環連絡所の使いだった。
封書には、北整備場第三列での記録補助について、追加確認の依頼が書かれている。
尽は最初、薬材車の数字を間違えたのかと思った。
そうではなかった。
〈霧路観測器の外形記録補助。工具使用なし。分解なし。接触なし。受諾は任意〉
契約条件を聞くため、連絡所へ来てほしいという。
今すぐ来い、ではない。
次の受付鐘まで。
断る場合は、宿から木札を返すだけでいい。
尽は封書を二度読んだ。
興味はある。
興味があることと、触っていいことは別だ。
工具棚の鍵を持たず、記録帳だけを持って連絡所へ向かった。
仕事窓口には、セアドと、見知らぬ女性が待っていた。
女性は碧色の長衣を着ている。額の左右から細い角が後ろへ伸び、角の根元に銀糸が巻かれていた。机上の名札は〈霧路術師・ナージャ〉。
ナージャは挨拶より先に言った。
「あなたが観測器を直すわけではありません」
「はい」
「外形を測り、私たちが読み上げる針の位置を記録します」
「接触なし、と書いてありました」
「測尺も装置へ当てません。床の基準線から読む。分解もしない」
「なぜ僕に?」
セアドが昼の記録板を出す。
尽は左右の差だけでなく、測定時刻と荷下ろしからの経過を欄外へ書いていた。誰にも求められなかった記録だが、右前輪の温度が二度目に下がった理由を検討する役に立った。
「文字が読めて、知らない欄を空けられて、同じ物を同じ順で測れる者が要る」とナージャは言う。「整備士は今、到着車で手が塞がっています」
褒められているようで、条件の半分は「余計なことをしない」だった。
尽には、その方が信用できた。
新しい契約札が出される。
場所は北整備場の隔離枠。
時間は一鐘。延長なし。
役割は外形位置、台座傾斜、指示針の読取記録。
装置への接触、工具使用、術式への魔力入力は禁止。
異常時はナージャが停止権を持つ。尽本人も、膝痛、戒指の発熱、理解できない光、声、臭いが出た場合に停止を求められる。
戒指の項目は、尽が自分で追加した。
「指輪?」
ナージャが聞く。
尽は布の下へ隠した銀色の輪を見せた。
「氷風城の低能灯に触れた時、一度だけ熱を持ちました。原因は未確認です。今回は触りませんが、念のため」
ナージャは指輪を調べさせろとは言わなかった。
契約札へ〈未知携行物あり・装置から二歩以上離す〉と加える。
「それでいい。近づける試験は別の申請になる」
尽は署名した。
北整備場の隔離枠は、第三列から壁二枚を挟んだ場所にあった。
霧路観測器は低い台へ載せられ、周囲に白線が二重に引かれている。
布は外されていた。
装置は、望遠鏡と羅針盤を合わせたような形をしている。
中央に半球状の器。
外側に三重の輪。
輪の間には羽毛のように薄い感応片が並び、頂部から細い筒が斜めへ伸びていた。下部は四脚の台座で、輸送枠へ革帯で固定されている。
針は一本ではない。
赤、碧、白の三本。
赤針は氷山側の熱流。
碧針は碧曜側の魔力密度。
白針は、霧の中でも変化しにくい人工路標の基準音を拾う。
三つを重ね、進める方向を求める。
「磁石ではないんですね」
「磁石?」
尽は地球の方位磁針を説明しかけ、途中でやめた。
鉄の針が一定方向を示す仕組み。
ナージャは少し考える。
「磁鉄を使う坑道具ならある。でも碧暮の霧には、磁鉄を引く獣も鉱床も多い。道では信用しない」
地球で方位磁針が使えるからといって、雷姆利亚でも同じとは限らない。
尽の役目は、床の白線から装置四脚までの距離を読むことだった。
測尺は床へ固定され、装置には触れない。
前左。
前右。
後左。
後右。
四つを三回。
前左だけが、他より二目盛低い。
輸送中に台座が曲がったように見える。
だがセアドが輸送枠の床を測ると、枠そのものが一目盛沈んでいた。
さらに革帯の厚みが、左前だけ違う。
三つの傾きが重なっている。
「装置の脚が悪いとは、まだ言えません」
尽が言うと、ナージャは頷いた。
「だから外形から見る」
輸送枠の下へ同じ厚みの板を入れ、革帯を外さずに水平へ近づける。
尽は二歩離れたまま、三本の針を記録した。
赤針はほとんど変わらない。
碧針は少し戻る。
白針は、右、左、右と落ち着かない。
機械的な傾きだけでは、全部を説明できなかった。
ナージャが細い鏡板を使い、感応片の裏を見る。
碧い綿毛のような物が付いている。
「霧胞子だ」
セアドが顔をしかめた。
「夜牙外縁の荷に付く時期じゃない」
「成体の胞子ではない。路霧虫の巣殻かもしれない」
尽には区別できない。
どちらにしても、直接払ってはいけないらしい。
霧胞子なら乾いた風で散らす。
巣殻なら熱を避け、専用の粘着糸で取る。
処置が逆になる場合がある。
ナージャは透明な筒へ綿毛の一部を吸い込み、色札を二枚近づけた。綿毛は赤札から縮み、碧札へ細い糸を伸ばす。
「巣殻だ。まだ生きている」
隔離枠の外で処理班が呼ばれた。
尽の契約には、生物処置は含まれない。
彼は白線の外へ下がった。
処理班は粘着糸で巣殻を一つずつ取り、感応片の枚数と位置を記録する。全部で七つ。白針側に五つ、碧針側に二つ。
除去後、もう一度針を読む。
碧針は基準内へ戻った。
白針は揺れ幅が半分になった。
それでも、一定間隔で右へ跳ねる。
尽は記録を見返した。
跳ねる間隔は、整備場の鐘と同じではない。
荷門の開閉鐘でもない。
およそ十二呼吸。
十一。
十三。
また十二。
完全な周期ではないが、ばらばらでもない。
「夜牙外縁での記録はありますか」
「到着札だけだ」とセアドが答える。「観測帳は次の便。装置は、霧が薄い時にも方位を失ったから先に送られた」
「基準音そのものが変わった可能性は?」
尽が聞くと、ナージャは白針を見る。
「ある。路杭が三本折れている。けれど三本で、ここまで外れるかは帳面がなければ分からない」
装置の故障。
台座の傾き。
巣殻の付着。
基準音の変化。
少なくとも四つある。
どれか一つを直して、治ったと決めれば、霧の中で道を外す。
一鐘が終わった。
ナージャは作業停止を告げる。
白針は不安定のまま。
だが、赤針と碧針は輸送影響を除いた基準へ戻った。外形記録と巣殻採取位置も残った。
直ってはいない。
分からない範囲が狭くなった。
それが今日の成果だった。
報酬札を受け取った後、尽は返程窓口を見た。
取消待ち二番。
変化なし。
宿へ戻る途中、セアドが追いついた。
「明日の受付鐘に、夜牙の路守が来る。観測帳を持ってくるそうだ」
「僕の仕事は終わりました」
「終わった。だからこれは命令じゃない」
セアドは小さな招集札を渡す。
〈記録照合。参加任意。作業は連絡所内。〉
「今日と同じ順で数字を読んだ奴がいた方が早い、とナージャが言っている。断っても報酬は減らない」
尽は札を受け取った。
すぐには署名しない。
帰り便の取消が出れば、そちらが先だ。
膝が腫れれば、休む。
条件を変えるなら、また契約を読む。
迷った針を叩いて直してはいけない。
迷った自分も、勢いだけで動かしてはいけなかった。




