第三十話 門の町では、帰り道から売り切れる
セレヌ門の名は、一つの門から付いたものではなかった。
外門。
荷門。
水門。
獣門。
住民門。
尽が見える範囲だけでも、五つある。
それぞれの前に列があり、札の色も違う。商旅は碧い四角札を掲げ、荷門の三番列へ入った。
尽は地図へ、門の位置を書き込もうとした。
ザハルが止める。
「今は書くな。列が曲がる」
「列が?」
「昼荷と湿地荷で入口を替える。昨日の門を今日の門だと思うと、また黒枝へ戻るぞ」
地図を固定しただけでは、町の方が動くらしい。
尽は地図を閉じ、目の前の案内札を読むことにした。
荷門では、黒枝の出発印、途中二か所の休止印、護衛交代印を照合された。鈴喰い鹿が落とした薄板は封袋のまま路守組へ渡される。薬材車の後輪には赤い検査紐が付けられ、門内の整備場へ直行するよう指示が出た。
一度直したから終わりではない。
到着側でも、もう一度見る。
エマの保冷箱は温度印が基準内だった。彼女は診療所の受取人が来るまで、その場を離れない。
「宿は?」と尽が聞く。
「東水路の薬師宿。あんたには高い」
「ザハルさんは」
角族の商人は、もう革束の数を門吏と数えている。
「あれは北倉へ行く。追いかけても荷運びをさせられるだけだよ」
二人とも、ここから先は自分の仕事へ戻る。
尽は少し心細くなった。
同時に、それが普通なのだとも分かっていた。
黒枝まで同じ商旅に乗った。
同じ町へ着いた。
だからといって、同じ人生を歩く契約にはならない。
エマは診療所の者へ箱を引き渡す前に、薄い木札を一枚くれた。
〈西環・若葉寝台〉
旅人向けの宿名と、門からの道順が刻まれている。
「角が三本ある噴水を右。二本なら違う広場だ」
「噴水の角まで似ているんですか」
「似ているんじゃない。折れて二本になったのが一つある」
この町は、地図を裏返さなくても迷えそうだった。
尽は礼を言い、先に炉環連絡所を探した。
黒枝の連絡所は細い一棟だったが、セレヌ門では門塔の一階全部を使っている。旅札、税、仕事、宿、返程、荷争い、傷病。窓口は八つ。天井から色布が垂れ、読めない者でも列を選べるよう、札の形が描かれていた。
尽は〈返程〉の青い輪へ向かいかける。
途中で止まった。
先に保証旅札の再登録。
黒枝で書いた順番を思い出し、〈旅札〉の白い角へ並び直す。
窓口係は、眠そうな目をした小柄な獣族だった。頭の丸い耳が片方だけ折れている。名札には〈ルノ〉。
彼は保証旅札を受け取ると、停止印と延長印を光へ透かした。
「境界外来訪、出身地未照合。保証人、氷風城グランドーガ。黒枝で誤乗登録。延長八潮」
「はい」
「セレヌ門で何をする」
「氷風城への帰路を予約します。席が取れるまで宿に泊まります。必要なら、許可された範囲で短い仕事をします」
「町外へは」
「出ません」
「赤縁の紹介状は」
「期限を延ばしてもらいました。帰ってから、行き直すか相談します」
ルノは答えを一つずつ欄へ記した。
旅札にはセレヌ門の三角印が加わる。
滞在許可は四潮。
氷風城行きの切符が取れれば、出発潮まで自動で延びる。取れなければ、三潮目に再申請が必要。町外へ出る場合は別札。工房で働く場合は、雇い主が作業範囲を登録する。
「氷風城の弟子札があります」
尽が見せると、ルノは裏面の小さな刻印まで確かめた。
「身元の補助にはなる。仕事の免許にはならない」
「はい」
予想どおりだった。
次は返程窓口。
氷風城行きは、二潮後に一便。
掲示板には〈残席二〉とある。
尽は胸を撫で下ろした。
前の二人が窓口を離れるまで。
一人目は、大きな籠を背負った羽族。
二人目は、子供を連れた人間の夫婦。
掲示板の数字が二から零になった。
「今、なくなりました?」
窓口係は平然と頷く。
「なくなりました」
「次は四潮後ですか」
「定期便は四潮後。二潮後の便に取消待ち二名。あなたは三番目」
ここで怒っても、席は増えない。
子供を荷台の外へ括り付けろとも言えない。
尽は取消待ちへ名前を入れ、四潮後の便も予約した。二重に料金を取られるわけではなく、早い便へ乗れれば後の予約は解除される。
これで、遅くとも四潮後には帰れる。
ただし四潮分の宿と食事が要る。
財布を開く。
黒枝で痩せた金は、セレヌ門へ着いても太っていなかった。
紹介された若葉寝台は、西環の裏通りにあった。
角が三本ある噴水は見つかった。
そのうち一本は、先端から湯気を噴いている。
尽は二本の方も確認したくなったが、迷うために町を歩くのはやめた。
宿は細長い建物で、一階が食堂、二階と三階が寝台。入口には大きな足拭き布と、角用の壁穴が並んでいる。
黒枝の木椀が帽子になるという話を、尽は少し信じた。
宿主は夜行獣族の老女だった。灰色の毛に覆われた顔。眼は細く、碧い光の下でも瞳孔がほとんど見えない。
「四潮。工具棚あり。水は一日二桶。湯は共同。食事は鐘二つ目まで」
「途中で帰り便が取れたら」
「未使用分は半額返す。寝台を押さえた分は戻さない」
条件は木札に刻まれている。
尽は読んでから署名した。
部屋は六人部屋だった。
寝台の一つには、羽族の旅芸人が羽繕いをしている。もう一つでは、牙の短い獣族の職人が靴底へ金具を打っていた。窓際の二床は遮光布で囲まれ、休んでいる者の姿は見えない。
尽が工具袋を棚へ入れると、職人が灰色封紐を見た。
「黒枝通過か」
「分かるんですか」
「セレヌ門は青紐。黒枝は灰。氷風城は赤白。町を跨ぐ工具は紐が増える」
「全部付けたままですか」
「真面目な奴はな。不真面目な奴は、仕事が減る」
尽は紐を切らず、そのまま棚へ収めた。
宿代を払うと、手持ちは四潮を過ごす最低額に近くなった。
病気や道具の破損があれば足りない。
臨時仕事を探す必要がある。
だが、町へ着いたばかりで、何でもできますと言う気はなかった。
連絡所の一時仕事窓口には、依頼札が壁一面に掛かっている。
荷運び。
薬草選別。
水路清掃。
影獣の餌切り。
炉の灰出し。
路杭板の洗浄。
最後の札で、尽の目が止まった。
〈北整備場。到着車の状態記録補助。文字、数、簡単な計測。工具使用なし。半潮。〉
これなら、今の自分にもできるかもしれない。
窓口へ札を持っていく。
係員は弟子札を見ても、すぐ許可しなかった。
「当地の数字は読めるか」
「基本数字は。荷重記号は全部ではありません」
「測尺は」
「氷風尺なら。こちらと違うなら換算表が要ります」
「冷却術式は」
「分かりません」
「それでいい。分からない欄を勝手に埋める奴が一番困る」
仕事内容は、測る者の横で数字を読み上げ、前回記録との差へ印を付けること。車輪や術式には触れない。異常を見つけても、自分で修理しない。担当者を呼ぶ。
黒枝から来た薬材車の検査記録も対象に入っていた。
尽は契約札を読んだ。
作業場所は北整備場の第三列のみ。
半潮。
監督者は路守組のセアド。
報酬は食事二回分と、黒枝札三枚相当。
事故時の治療は整備場が負担。ただし指示外の作業は対象外。
尽は署名した。
北整備場は荷門の内側にあり、十台ほどの荷車が並んでいた。
監督者セアドは、森で影獣を連れていた若い護衛だった。
尽を見ると、少し驚く。
「油布の子か」
「食べさせていません」
「なら合格だ。あいつは今朝も軸油を舐めて腹を壊した」
影獣は整備場の柵内で丸くなり、反省しているようには見えない。
仕事は地味だった。
車輪の直径。
軸箱の温度。
固定具の印位置。
荷台四隅の高さ。
冷却箱の始動前と停止後の色。
尽が数字を読み、セアドが確認し、書記が記録する。
黒枝で締め直した薬材車の左後輪は、印から動いていなかった。外帯にも新しい傷はない。
一方、右前輪は基準内だが、前回より温度が少し高い。
尽は差へ黄色い点を付ける。
「異常ですか」
「まだ異常とは書かない」とセアドが言う。「荷を下ろした直後だ。半鐘置いて、もう一度測る」
二度目は下がった。
荷重による一時的な上昇と記録される。
別の荷車では、左右の高さが違った。
尽は黒枝の冷却箱を思い出したが、原因を口にしない。測定値だけを読み上げる。
現地の整備士が床下へ潜り、後部の支え板が一枚抜けているのを見つけた。
その時、整備場の外から声がした。
「路杭十三号の板、洗浄へ回すぞ!」
鈴喰い鹿が落とした薄板だった。
封袋から出す前に虫除け煙を通し、長鉤で石槽へ沈める。洗浄担当は厚い手袋を二重にしていた。
尽が柵の中で待った判断は、正しかった。
自分で拾わなかったからこそ、正しかった。
半潮の仕事が終わる頃、整備場の大きな掲示鐘が鳴った。
帰路便の空席通知ではない。
新しい到着車の知らせだった。
東の門から、泥にまみれた小型商旅が入ってくる。荷台には折れた路杭が三本と、布を掛けた細長い装置が積まれている。
車体の札には、尽の読めない碧暮文字が多い。
その下に、氷風城でも使われる共通文字があった。
〈夜牙外縁・霧路観測器。方位不定。分解禁止〉
尽は立ち止まった。
方位不定。
地図を逆さにした時とは違う。
道具の方が、方向を失っている。
セアドが手を叩く。
「仕事は終わりだ。契約外の荷を見るな」
尽は視線を戻した。
返事をし、記録板を渡す。
今の自分に許されたのは、第三列の荷車まで。
霧路観測器は、その外にある。
それでも宿へ帰る道で、尽は何度も腰の地図へ触れた。
セレヌ門では、門も列も動く。
森では、音の意味も一つではない。
そして東の霧路では、方位を示す道具そのものが、方向を失ったらしい。
帰り便まで、最大四潮。
その間に知ることが増えても、行ける場所まで増えたわけではない。
尽はその違いを、忘れないようにした。




