第二十九話 森の警笛は、戦えとは言わない
黒枝の城壁が木々の向こうへ消えるまで、誰も席を立たなかった。
客車の前後には護衛が二人ずついる。
先頭は、片耳の欠けた獣族の斥候。最後尾は、長槍を持つ角族の女。残る二人は左右の踏み板に立ち、枝の隙間と荷車の車輪を交互に見ていた。
森ばかり警戒しているのではない。
道具も、乗客も、同じくらい事故の原因になるらしい。
尽は膝の下の毛布を直し、窓枠へ地図を留めた。
今度は風で裏返らない。
上端に赤い糸、下端に碧い糸を結び、さらに進行方向へ矢印を書いた。
向かいに座るザハルが、それを見て鼻を鳴らす。
「地図にずいぶん装備を付けたな」
「同じ故障を二度起こさないためです」
「次は地図ごと落とす」
尽は留め紐を一本増やした。
ザハルは満足そうに目を閉じた。
黒枝からセレヌ門までは、一潮半。
碧暮域に夜はないが、碧曜の光は一定でもない。森の上空を薄い雲が流れるたび、針葉樹の影が伸び縮みする。枝の裏側には青白い苔が生え、暗くなると、空より先に地面が光った。
道は石畳ではなかった。
黒い土の上へ、拳大の灰石を埋め込んである。一定間隔ごとに白い杭が立ち、杭の先端には三枚の薄板が吊られていた。
風が吹くと、薄板が触れ合う。
高い音。
低い音。
ほとんど聞こえない震え。
「目印ですか」
尽が尋ねると、右の踏み板にいた護衛が答えた。
「半分はな。道を外れた時、あの音を探す。もう半分は森の獣へ、ここが商路だと知らせる」
「追い払うんですか」
「種類による。避ける奴もいる。寄ってくる奴もいる」
「寄ってくるなら、鳴らさない方が」
「そう決めて全部外した村が、昔あった」
護衛は肩をすくめた。
「人間には静かでよかった。縄張りを知らせる音まで消えたから、牙背熊には空いた道だと思われた」
一つの音に、一つの意味があるわけではない。
尽は記録帳へ書いた。
〈路杭。位置、警告、縄張り境界。音量を下げれば安全とは限らない〉
商旅は速くない。
先頭の牽引獣は、六本脚の灰色の獣だった。足先が広く、柔らかい地面でも沈みにくい。背には鞍ではなく、左右へ張り出す金属枠が載っている。枠の小石が順番に光り、長い坂だけ牽引力を補っていた。
魔法で車を動かしているのではない。
獣が歩き、術具は負担の大きい時だけ助ける。
その方が、石が切れても止まりきらない。
氷風城の揚水輪と同じ考え方だった。
似ている。
けれど、牽引獣の歩幅も、汗も、機嫌も計算へ入る。
尽の知っている発動機より、ずっと変数が多い。
一度目の休止は、出発から半潮ほどの場所だった。
道の脇に丸太の柵があり、内側へ水桶、簡易便所、修理台が置かれている。屋根の中央には鐘。柵の四隅には、黒い袋を被せた灯石があった。
護衛が先に降り、柵内を一周する。
足跡。
糞。
破損した縄。
火の跡。
全部を確認してから、乗客へ下車許可が出た。
尽も降りたが、走らない。膝を二度曲げ、腫れと熱がないことを確かめる。
エマは保冷箱の札を読み、温度の印を帳面へ写す。ザハルは荷台の革紐を一本ずつ引いた。
旅は、景色を見る時間より確認する時間の方が長い。
尽が水を飲んでいると、柵外の路杭が一つ鳴った。
高い音が二回。
間を置いて、一回。
護衛の顔が変わる。
「全員、柵内。荷台へ戻るな」
誰も武器を抜いて森へ走らなかった。
乗客は水桶から離れ、屋根の下へ集まる。牽引獣は御者が柵の奥へ移し、目隠し布を掛けた。角族の女が門を閉じ、斥候は梯子から屋根へ上がる。
尽も壁際へ座った。
高音二回、一回。
また鳴る。
風ではない。
木々の間を、背の低い影が横切った。
一頭。
二頭。
五頭。
灰青色の毛皮に、枝のような角。鹿に似ているが、口元は細長く、前脚だけが異様に太い。
群れは道へ出ず、路杭の周りを回っていた。
「鈴喰いだ」とザハルが小声で言う。
「鈴を食べるんですか」
「金属を食うわけじゃない。音のする物を角で落とす。落ちた板に付く塩を舐める」
尽は杭を見る。
三枚の薄板には、汗や霧から生じた白い粉が付いていた。
一頭が角を振る。
高音二回、一回。
警笛ではなく、薄板を角が叩く音だった。
「魔獣ですか」
「森獣だ。腹を空かせた時だけ荷を襲う。今は塩板が目的」
護衛は弩を構えているが、撃たない。
群れの最後に、小さな個体がいた。前脚を引きずり、杭へ近づくたび大きな個体に押し戻される。
やがて一頭が薄板を角で跳ね上げた。
留め金が外れ、板が道へ落ちる。
群れが一斉に寄った。
そのまま通り過ぎるなら、待てばいい。
だが、落ちた板の一枚が車輪の通る窪みへ入っている。
踏めば板が割れるだけではない。尖った留め金が車輪へ刺さるかもしれない。
尽は護衛へ伝えた。
「道の中央に金具があります」
「見えている。今は取りに行くな」
「はい」
答えたものの、群れが去るまでには時間がかかった。
子獣が白い粉を舐め終える。
大きな個体が森へ戻る。
斥候は最後の尾が木々へ消えても、すぐ門を開けなかった。
砂時計を一度落とす。
次に屋根の上から、臭いの強い黒玉を道へ投げる。玉が割れ、煙が地面を這った。隠れていた獣がいないことを確かめてから、二人一組で外へ出る。
尽は柵内に残った。
落ちた板も、曲がった留め金も、護衛が長鉤で回収する。
「僕なら、金具を布で包んでから持ちます」と尽が言うと、角族の女は板の裏を指した。
小さな黒い虫が、何十匹も貼り付いている。
「だから鉤を使う。鈴喰いの角につく吸血虫だ」
尽は黙って、記録帳の余白へ書き足した。
〈落下物。金具だけを見るな〉
路杭の修理は、護衛の仕事ではなかった。
白杭の番号を控え、薄板を封袋へ入れ、セレヌ門の路守組へ報告する。現場で付け直せば早いが、虫卵や獣の匂いを商路へ残す恐れがあるという。
警笛が止み、ようやく商旅が動き始めた。
尽は少し恥ずかしくなった。
道の中央に金具があることは見えた。
だが、それを安全に拾う方法は知らなかった。
観察が正しくても、行動まで正しいとは限らない。
二度目の問題は、魔獣ではなく車輪だった。
休止柵を出て一鐘ほど進んだ坂で、薬材車の左後輪が低い音を立てる。
ごとん。
三回転。
また、ごとん。
御者が手を上げ、列全体を止めた。
護衛は先に周囲を確認する。修理係が輪縁へ白墨を当て、荷車を半回転ずつ動かした。
輪縁に割れはない。
軸も熱くない。
それでも、同じ位置で音がする。
尽は客車から降りず、窓越しに見た。
冷却箱を直した時、荷台は水平に調整された。だが道の泥が片側の車輪だけ厚く付着し、輪縁の一か所へ塊を作っている。
「泥では?」
修理係は先に棒で泥を落とした。
音は小さくなった。
消えない。
泥の下から、青い木の実が潰れて出てきた。硬い殻が輪縁と外帯の隙間へ挟まり、回転するたび継ぎ目を押していた。
「木の実が原因ですか」
「原因の一つだ」
修理係は外帯の固定具を確かめる。
右側より半回し緩い。
朝の冷却箱修理で荷台を持ち上げた際、固定具へ触れた可能性がある。誰か一人の失敗とは決められない。整備前の締め不足かもしれず、移動中の振動かもしれない。
彼は締め直した位置へ印を付け、黒枝の作業記録と照合するよう帳面に残した。
「泥を落として出発、では駄目なんですね」
「音を作ったのは実だ。実が隙間へ入れたのは緩みだ。緩みを作った理由は、まだ分からん」
グランドーガが好みそうな答えだった。
尽は手伝っていない。
報酬もない。
ただ、荷車が再出発した後、修理係から輪縁確認の順番を教わった。
音の周期。
発熱。
左右差。
付着物。
固定具。
最後に記録。
現代の自転車や機械と似た項目もある。
だが外帯には、衝撃を逃がす刻印が三か所あり、締めすぎても割れる。力いっぱい締めれば安全、ではなかった。
碧曜の輪が雲へ半分隠れる頃、商旅は二つ目の休止柵へ入った。
ここで護衛が交代する。
黒枝側の四人は帰路の商旅を待ち、セレヌ門から来た三人が引き継ぐ。人数は一人減ったが、代わりに大きな影獣がいた。
黒い犬に似た体。
肩は尽の胸ほど高い。
眼は閉じたまま、鼻の両側に小さな孔が六つ並んでいる。
「見えていないんですか」
新しい護衛の少年が、影獣の首輪を確認しながら答えた。
「光は見ない。熱と息を見る。森霧の中では俺より役に立つ」
影獣は尽の前で鼻を鳴らした。
戒指を布ごしに嗅いだのかと思い、胸が強張る。
だが影獣はすぐ工具袋へ向き、油の付いた布へ舌を伸ばした。
「食べ物じゃない」
尽が袋を抱えると、少年が笑った。
「そいつは油なら何でも食べ物だと思う。食わせるな。腹を壊す」
魔獣めいた外見でも、やることは犬とあまり変わらない。
交代記録では、鈴喰い鹿の群れ、路杭一基破損、薬材車後輪の固定具再締結が申し送られた。
新しい護衛は、その三つを同じ重さでは扱わない。
鹿の群れは通常範囲。
路杭は路守組へ通知。
固定具は次の一鐘ごとに再確認。
危険度を分けてから、出発を許可した。
森の道は、次第に広くなった。
木の幹には採取札が増え、道脇には低い畑も現れる。青黒い葉の間から、白い根が地上へ盛り上がっていた。畑仕事をしているのは角族だけではない。耳の長い獣族と、人間の老人が同じ籠へ根菜を積んでいる。
遠くに塔が見えた。
一本ではない。
太い門塔が二つ。その間へ、何層もの橋と建物が重なっている。塔の背後には黒い城壁が左右へ伸び、上部だけが碧曜を受けて青く光っていた。
「セレヌ門だ」とザハルが言う。
尽は地図を見る。
赤い糸は背後。
碧い糸は前。
矢印も合っている。
今度こそ、切符に書かれた町だった。
安心した途端、門前の列が見えた。
荷車。
旅人。
家畜。
積み上がった木箱。
黒枝の三倍は並んでいる。
尽は息を吐く。
「着いてからも、受付なんですね」
エマが保冷箱の温度札を確かめる。
「町っていうのは、だいたいそういうものだよ」
門の上で、低い鐘が鳴った。
戦えという音ではない。
到着列を一つ進める音だった。




