第二十八話 戻る道にも、点検日はある
黒枝で最初の休息を終えると、尽は帰り便の掲示板へ向かった。
昨日見た時は、氷風城行きが三潮後と書かれていた。
今は、その文字の上へ黄色い札が重ねられている。
〈車軸検査。出発見込、五潮後〉
尽はしばらく札を見た。
見ても、三潮には戻らない。
窓口のネーヴァは、先回りして言った。
「あんたのために遅らせたんじゃないよ」
「分かっています」
「昨日入った帰路車の車輪に、細い割れが見つかった。荷を載せて隧道へ入れる状態じゃない。交換軸が来るまで二潮追加」
「別の便は」
「黒枝から氷風城へ直行はない。セレヌ門発なら二潮ごとに一便ある。ただし、ここからセレヌ門まで一潮半。行ってすぐ乗れるとは限らない」
尽は帳面を開いた。
選択肢を三つに分ける。
黒枝で五潮待ち、直帰。
セレヌ門まで進み、そこから氷風城行きを探す。
赤縁への予定を諦め、別の仕事を探す。
三つ目には、すぐ横線を引いた。
旅に出た目的は、行方不明になることではない。
「セレヌ門へ行った場合、保証旅札は使えますか」
「使える。ただし、黒枝で出した停止申請は、移動を始めた時点で解除。向こうで再登録が要る」
「黒枝で待つ費用と、セレヌ門までの費用は」
ネーヴァは宿、水、食事、切符、門税を書き出した。
黒枝に五潮滞在する方が、わずかに安い。
セレヌ門へ進む方は、金だけなら得ではない。
しかも未知の土地へ一潮半、さらに奥へ入る。
尽は即決しなかった。
掲示板の時刻を写し、宿へ戻る。紹介状の期限、手持ちの金、膝の状態、帰路便の空席。数字にできるものを並べた。
膝は歩ける。
だが、荷物を持って走れない。
魔力は、練習石に白い線が出るかもしれない程度。
護身には数えられない。
薯片はない。
最後の一つには、丸を付けた。
持っていない物を、計画の中だけで持っていることにしてはいけない。
食堂で薄い粥を食べていると、エマが向かいへ座った。
卸しを終えたらしく、昨日の大箱はない。代わりに、腰ほどの高さの細い保冷箱を足元へ置いている。
「帰り便、延びたね」
「知っていたんですか」
「薬商は道が止まると値段が変わる。朝一番に見る」
尽は三つの選択肢を見せた。
エマは紙を回さず、自分の側から逆さに読む。
「また地図を逆さにしそうで嫌なんですが」
「文字まで逆に読めるから平気だよ」
「それ、今回の原因の一つです」
エマは口元だけで笑った。
彼女はセレヌ門へ行く。湿地薬を預ける診療所があり、次の仕入れ証も受け取らなければならない。
ただし尽を誘いはしなかった。
「私の護衛は商会と契約している。あんたが横にいれば守る、という契約じゃない」
「分かっています」
「分かっている顔をして、分かっていない旅人が多い」
「僕は、分からない時は書きます」
「なら、今は何て書く」
尽は記録帳へ一行足した。
〈エマの護衛範囲に、私は含まれない〉
「よし」
褒められた気はしない。
食堂の外で、短い警笛が鳴った。
商旅の出発ではない。連絡所の作業員が、セレヌ門行きの荷車を囲んでいる。荷台脇の細長い箱から白い霧が漏れ、床板を濡らしていた。
エマが立ち上がる。
「私の箱だ」
保冷箱は一つではなかった。診療所へ運ぶ薬箱六つを、荷車の冷却器へ繋いでいる。その冷却器の排気口から、白い霧が途切れず出ていた。
作業員が封止弁を閉じる。
霧は弱まるが、止まらない。
「出発は?」とエマが聞く。
「原因確認まで止める。冷却石の割れなら交換。導管なら一鐘。荷台の術式なら今日は出せない」
尽は少し離れた位置から見る。
昨日の湯管と似ているようで、違う。
湯管は熱を運ぶ。これは熱を奪う。白い霧が出る場所も、弁ではなく箱の下側だ。
氷風城で教わった言葉が浮かぶ。
似た現象を、同じ原因と決めるな。
尽は手を出さなかった。
作業員が外板を外すまで待つ。
中には冷却石、刻印板、二本の導管、それらを押さえる木枠があった。冷却石に割れはない。導管の継ぎ目にも霜は付いていない。
だが、荷車がわずかに揺れるたび、白い霧の量が増える。
尽は床へ目を落とした。
左車輪の下に置かれた輪止めが浅い。荷台は通りの傾きに沿って、ほんの少し前へ荷重をかけている。
冷却箱の木枠も前へ寄り、導管を押していた。
「止め具を深くして、荷台を水平に近づけてもいいですか」
作業員が振り返る。
「誰だ」
尽は保証旅札と、工具袋の記録紐を見せた。
「氷風城の工房見習いです。触らずに見ています。揺れた時だけ漏れが増えました」
作業員は、すぐに尽の言うとおりにはしなかった。
別の者へ合図し、荷台四隅の高さを測る。
左前が指一本分低い。
輪止めを入れ直し、後部を短い持上げ具で支える。霧は少なくなったが、まだ残った。
「半分だな」と作業員が言う。
「はい。漏れた原因じゃなくて、漏れを増やす条件でした」
彼は木枠を外した。
その下から、潰れた灰色の緩衝布が出てくる。荷の重みが直接導管へかかり、接続輪の片側を歪めていた。
交換用の布と輪は、荷車の予備箱にある。
修理は一鐘で終わる。
出発中止にはならなかった。
エマが息を吐く。
「あんた、乗る便を自分で直したね」
「直したのは作業員です。僕は傾きを言っただけです」
「そういう言い方をする子は、長生きするか、面倒な職人になる」
作業員は連絡所の一時仕事札を持ってきた。
尽の役割は、故障修理ではなく、荷台傾斜の発見と測定補助。報酬は黒枝札二枚。さらに、セレヌ門行きの空き席を通常料金から一枚引く。
「乗るならだ。乗らないなら現金だけ」
割引に釣られて行先を決めてはいけない。
尽はもう一度、窓口へ戻った。
セレヌ門行き商旅の護衛契約を確認する。城壁外では乗客全体を守る。勝手に列を離れた者は対象外。休憩地点は二か所。どちらも柵と警笛あり。魔獣接近時は戦うより退避を優先する。
セレヌ門到着後、氷風城行きの次便は二潮後。その便が満席なら、さらに二潮。
保証旅札は、到着当日に再登録できる。
紹介状の赤縁工房へは遅延連絡を送れる。
ザハルは、さらに一つだけ教えた。
「セレヌ門は名の通り門の町だ。黒枝より大きい。帰り便も仕事も多い。だが、町を出て奥へ行けば話は別だ」
「奥へ行くつもりはありません」
「予定は紙に書け。口だけだと、また逆さになる」
尽は本当に書いた。
〈今回の目的地はセレヌ門連絡所。町外へ出ない。到着後、旅札再登録。氷風城への帰路を確保。〉
その下へ、停止条件も並べる。
膝の腫れ。
護衛契約の変更。
商旅の封印破損。
予定外の野営。
どれか一つでも起きたら、最寄りの柵内へ戻る。
ようやく、尽は切符を買った。
碧縁へ冒険に行く切符ではない。
帰路便の多い町へ移動するための切符だ。
それでも、紙片に刻まれた文字は〈セレヌ門〉だった。
出発前、氷風城から伝書翼が戻った。
金属筒には、三枚の短い返書が入っている。
メルダから。
〈怪我がないなら、まず食べて休むこと。膝が腫れたら移動禁止。〉
ボルンから。
〈地図は机に置いて見るな。進行方向へ体ごと向け。〉
グランドーガから。
〈紹介状の期限は八潮延ばす。赤へ来るか、戻るかは安全な場所で決めろ。知らない術具を直すな。知っているつもりの術具は、もっと直すな。〉
最後に、小さく追記がある。
〈薯片を置いていった判断だけは褒める。〉
尽は三枚を読み終え、保証旅札の正式延長印を受けた。
胸の奥に溜めていた息が、ようやく抜ける。
怒られるのは、帰ってからでいいらしい。
商旅は、黒枝の内門で武器封印と荷札を再確認した。
ザハルは乾燥薬草の荷台へ乗り、エマは保冷箱の温度札を見張る。二人とも自分の仕事がある。
尽は客車の端へ座り、膝の下へ丸めた毛布を入れた。
門が開く。
外には黒い針葉樹の道が伸び、碧曜の光が枝の間で細かく割れている。
遠くで何かが鳴いた。
低く、長い声だった。
護衛が槍を上げる。
戦う合図ではない。
全員に、席を立つなと知らせる合図だ。
尽は立たなかった。
工具袋にも触れない。
正しい向きへ固定した地図の上で、黒枝からセレヌ門までを指でなぞる。
間違いから始まった道だ。
けれど、次の一歩まで間違いに任せる必要はない。
商旅は、碧い森へ入った。




