第二十七話 間違いにも、受付番号が要る
黒枝休息所は、黒い森の中に置かれた石の箱だった。
近づくにつれ、外壁の形が見えてくる。
背の高い一本壁ではない。低く厚い壁が三重に巡り、その間へ砂利と短い棘杭が敷かれている。外側の壁には、森へ向いた細長い窓。内側には、商旅を一台ずつ通す湾曲した通路。
真っすぐ突っ込めない造りだ。
門の上では、角族と人間の見張りが並んでいた。片方は弩を持ち、もう片方は先端に碧い石をはめた長杖を持っている。
尽は少しだけ肩へ力を入れた。
その横で、ザハルが欠伸をする。
「あれを見て怖がれるなら、まだ元気だな」
「怖がらない人もいるんですか」
「毎潮通る奴は、門より宿代を怖がる」
商旅は外壁前の白線で止まった。
乗客は降りず、まず荷札の確認を受ける。荷台の扉が開き、乾燥薬草、革束、金属箱の順に検査された。エマの薬箱は封を切られず、代わりに氷風城で付けた検査札と、箱の角に刻まれた番号を照合される。
尽の荷物は小さい。
工具袋。着替え。筆記具。地図。止まった腕時計。封をされた紹介状。
検査官は工具袋を開け、錐、短いやすり、小槌を一本ずつ台へ置いた。
「武器か」
「工具です」
「用途は」
尽は錐を指す。
「穴の位置を出す。これは縁を整える。小槌は、叩く」
「最後だけ説明が雑だな」
検査官は笑わなかった。
代わりに、小槌を二度持ち替え、重さを確かめる。
黒枝では、刃の長い武器と攻撃用の術具は封印所へ預ける。生活用の刃物と職人道具は、用途と宿を登録すれば持ち込める。ただし城壁内で人へ向けた瞬間、武器として扱われる。
尽の工具袋には灰色の封紐が通された。
開けてはいけない封ではない。開けた者と時刻を残す、小さな記録石付きの紐だった。
「工房で使う時は、責任者の前で開けろ。宿で勝手に外すな」
「はい」
「返事はいい。札をなくすな」
氷風城でも、最後は同じことを言われた。
門を二つ抜けると、黒枝の中は思ったより明るかった。
碧い陽光をそのまま取り込まず、壁の上の白石板へ当てて散らしている。通りには赤い布と碧い布が交互に渡され、どちらの光が強い時でも影が偏りすぎないようになっていた。
店先には角族、牙の長い獣族、人間、羽族、それに顔の半分を布で覆った小柄な者までいる。
誰もが仲良く笑っているわけではない。
荷車の順番で怒鳴る者もいれば、値段を巡って机を叩く者もいる。
ただ、その怒鳴り声に「人族だから」や「魔族だから」という言葉はなかった。荷札が遅い、秤が軽い、道を塞ぐな。争いの理由は、拍子抜けするほど普通だった。
「ぼんやりするな。受付はこっちだ」
エマに呼ばれ、尽は石造りの細い建物へ入った。
入口の札には、三つの文字で同じ内容が刻まれている。
〈炉環連絡所・旅券・伝書・一時仕事〉
中には窓口が四つあった。
一番左が旅券。次が荷物。三番目が仕事。最後が揉め事。
揉め事の窓口だけ、椅子が床へ固定されていた。
尽は見なかったことにした。
旅券窓口の係員は、額に短い一本角を持つ女性だった。名前札には〈ネーヴァ〉とある。彼女は保証旅札と途中下車札を受け取ると、先に尽の顔を見た。
次に旅札を見る。
もう一度、尽を見る。
「境界外来訪。出身地未照合。保証人グランドーガ」
「はい」
「赤縁工房への紹介状を持ち、碧縁短路へ誤乗」
「はい」
「ずいぶん器用な間違え方をしたね」
「六つくらい重なりました」
「数えたのかい」
「次に止める場所が分からなくなるので」
ネーヴァは、初めて少し笑った。
だが、手続きは笑って済ませなかった。
商旅の途中下車札。氷風城受付の発券番号。尽自身の説明。車掌が記した確認文。四つを別々に読み、食い違う箇所へ細い印を付けていく。
「誤乗の登録は受ける。保証旅札の残り三潮は、審査が終わるまで減らさない。ただし自動延長じゃないよ」
「審査は、いつ終わりますか」
「氷風城から返事が来て、こちらの到着記録と合えば一潮分を戻す。返事が来なければ、停止は二潮で切れる」
「三潮待っていたら、切れますか」
「だから今日、伝書を出す」
ネーヴァは木札を一枚差し出した。
文は短くしろ。事実と依頼を分けろ。返事が必要なら、受取費用も先に払え。
尽は窓口脇の台で、鉛筆に似た黒芯を握った。
〈グランドーガ師匠、メルダさん、ボルンさんへ。私は行先確認を誤り、碧縁の黒枝休息所に到着しました。怪我はなく、保証旅札の停止申請をしました。まず安全な宿に泊まり、帰り便とセレヌ門経由便の費用・時刻を比較してから決めます。薯片は持ち出していません。返事をお願いします。風間尽〉
最後の一文だけは、聞かれる前に書いた。
あの四人が最初に心配するのは、たぶんそこだった。
伝書代は、尽が考えていたより高い。薄い赤銅貨を三枚、受取予約にもう一枚。手持ちの氷風札はそのまま使えず、連絡所の交換窓口で黒枝札へ替える必要があった。
交換率は、掲示板に大きく書かれている。
大きく書かれていても、安くなるわけではない。
「門を越えたら、金が痩せた……」
尽が呟くと、後ろにいたザハルが言った。
「金は痩せない。旅人の見積もりが太っていただけだ」
反論できない。
伝書翼は、建物の裏から飛び立った。
鳥ではなかった。
胴は灰色の羽毛に包まれているが、翼の外側には薄い膜が張り、尾には小さな金属筒が三本並ぶ。係員が風向きごとに尾筒を一本選び、封書を収める。
飛び上がった瞬間だけ、翼の刻印が白く光った。
それからは羽ばたきと滑空で、氷山の方角へ小さくなっていく。
魔法だけではない。
筋肉だけでもない。
生き物の癖と道具を組み合わせている。
尽は見えなくなるまで目で追い、記録帳へ尾筒の向きを描いた。
「見物は終わりかい」
エマが薬箱を抱え直す。
「私は卸し宿へ行く。あんたは旅人宿の方が安い。ザハルについていけば場所は分かる」
「一緒には行かないんですか」
「行先が違う。薬は勝手に宿へ着かない」
言い方は冷たいが、彼女は旅人宿の名を二つ書いてくれた。一つは安いが大部屋。もう一つは少し高いが、工具箱を預ける棚がある。
尽は後者を選んだ。
安さだけで工具を失えば、帰るまでの仕事もできない。
宿〈三根亭〉では、寝台代のほかに水代、毛布代、食器の預かり金が要った。
「食器まで?」
亭主は、棚から木椀を一つ出す。
「持っていく奴がいる」
「こんな大きいのを?」
「頭に角がある客には、ちょうどいい帽子になるらしい」
横でザハルが咳払いした。
尽は彼の角と木椀を見比べたが、何も言わなかった。
夕食に出たのは、黒い平焼きパン、豆に似た紫の粒、薄切り肉の煮込みだった。香りは悪くない。だが皿の端に、半透明の緑色の茎が添えられている。
尽は箸代わりの二本棒を止めた。
森の知らない植物を食べるな。
エマの忠告を思い出す。
「これは、食べても?」
亭主が顔をしかめた。
「飾りだ」
「飾りを皿に置くんですか」
「油を吸わせる。食えば舌が二潮しびれる」
聞いてよかった。
向かいの席では、獣族の子供がその茎を指で弾き、母親に手を叩かれている。
尽は平焼きパンをちぎった。
薯片とは似ても似つかない味だった。
それでも温かく、腹に溜まった。
食事の途中、奥の洗い場から甲高い音が三度響いた。
亭主が立ち上がる。
「またか」
洗い場の湯管から、白い蒸気が細く漏れていた。壁際の回し弁は閉じているのに、湯が止まりきらない。亭主は布を巻いて弁を締めようとする。
尽は立ち上がりかけ、止まった。
ここは工房ではない。
勝手に触るなと、何度も教わった。
「連絡所へ修理を頼んでいますか」
「呼んだ。次の鐘まで来ない」
「見るだけなら。工具は、責任者の前で開ける規則です」
亭主は尽の灰色封紐を見る。
すぐには頷かなかった。
「何を直したことがある」
「氷風城で、水量計と灯りと洗浄膜の補助を。全部、監督付きです」
「湯術は」
「分かりません」
「分からんのか」
「だから、術式には触りません。弁の外側だけ見ます」
亭主は少し考え、宿の帳面へ尽の旅札番号を書いた。さらに厨房から一人呼び、立会人にする。
そこまでして、工具袋の封紐を開いた。
尽は湯管へ手を近づけず、まず床へ落ちる雫の間隔を数えた。弁を閉じる。開く。もう一度閉じる。
閉め始めは滑らかだが、最後の四分の一だけ手応えが軽い。
ねじが空回りしている感じではない。
軸の根元に、黒い樹脂粉が固まっている。
「これ、森の樹脂ですか」
「管の継ぎ目に使う。熱で締まる」
「締まりすぎて、弁軸を横へ押しています」
尽は紙片を弁輪と壁の隙間へ入れた。上では通り、下では止まる。軸がわずかに傾いている。
だが、分解はしなかった。
湯の力源も、内側の封止材も知らない。
紙に傾きと樹脂粉の位置を描き、応急処置として「閉止時に押し込まず、漏れ受けを置く」だけを提案した。
やがて連絡所の管工が来た。
彼は尽の紙を見てから、管の術式を止め、専用具で軸受けを外す。内側の輪は片側だけ削れ、樹脂が膨らんで食い込んでいた。
「見立ては半分当たり。樹脂だけじゃない。前に交換した輪の厚みが違う」
管工は二枚の輪を並べた。
尽には、外すまで分からなかった差だ。
「次は、そこも記録します」
「次があるなら、先に管工札を取れ。旅人が湯管を触るのは、見るだけでも宿主の責任になる」
叱られた。
だが追い出されはしなかった。
亭主は約束どおり、尽の食事代から赤銅貨一枚を引いた。修理代ではなく、管工へ渡す状況図を作った手間賃として帳面に残す。
稼げたのは一食分にも届かない。
それでも、無許可の善意よりは、ずっとましだった。
大部屋の寝台へ戻ると、外では碧曜が低い輪を作っていた。
夜は来ない。
遮光板が窓を覆い、休息鐘が二度鳴る。
尽は工具袋を預かり棚へ入れ、鍵を腰紐に結んだ。
次に保証旅札を見る。
停止申請の白印が、一つ増えている。
間違えたからといって、世界が彼を助けてくれるわけではない。
だが、間違いを記録し、止め、連絡し、選び直す場所はあった。
尽は記録帳の新しい頁に書く。
〈黒枝到着。安全。期限停止は仮。返事待ち。知らない緑の茎は食べない〉
最後の一行には、二重の下線を引いた。




