第二十五話 治った膝は、旅券ではない
旧測鉱所から戻って、十二回の双曜潮が過ぎた。
地球時間なら、十三日ほど。
尽は一度も城外へ出なかった。
最初の一潮は、メルダの命令通り完全休養。
二潮目から治療区の平地歩行。
三潮目は一層分の階段。
四潮目から、空の工具袋を背負う。
五潮目。
袋へ小さな木片を十二枚。
六潮目。
低い作業台で半鐘立つ。
痛みが三角になれば、その日の負荷を増やさない。
調子がよくても、二段階先へ飛ばさない。
八潮目で杖なしの平地歩行が許可された。
階段では手すり。
長距離は杖。
走行はまだ禁止。
十潮目、短い距離なら工具袋を持てる。
十二潮目、固定板が外れた。
メルダは、治癒札へ白い丸を付けなかった。
〈日常歩行可〉
〈長距離条件あり〉
〈走行未許可〉
骨と腱が戻っても、筋力と反応は同じではない。
治った膝は、どこへでも行ける旅券ではなかった。
その間も、工房の仕事は続く。
水量計は二度目の双曜潮点検で、赤条件の針が許容線ぎりぎりまで進んだ。双応黄銅の歯車ではなく、古い相手歯車の軸が摩耗していた。
相手側も交換。
記録札へ追加。
暗階段の双灯は、六潮目に赤い故障片を一度落とした。
下段灯の枝停止片へ、清掃用の布屑が挟まっていた。管理人が手順通り通路を半分閉じ、貸出灯を置き、工房を呼んだ。
装置の故障検出は働いた。
清掃手順には、分岐箱の小窓を先に閉める項目が追加された。
洗浄場の複層膜は十二束点検で、指針の戻りがまだ一呼吸遅い。悪化はない。
六潮点検まで継続観察。
何一つ、作った日に終わらない。
工房弟子の仕事は、新しい物を作るより、古い記録へ次の行を足す方が多かった。
尽の現地語も少し増えた。
依頼札の基本項目。
数字。
工具名。
工賃。
危険表示。
道を尋ねる言葉。
食堂で、粥の量を間違えず注文できる。
紙屋で、古紙返却と保管原本を区別できる。
長い会話は、まだ無理だった。
冗談は、半分ほど遅れて分かる。
分かった頃には皆が別の話をしている。
魔力訓練も、毎潮一回。
食事、休息、椅子、練習石、戒指遮蔽を揃える。
十三回目。
白点なし。
十四回目。
検流紐、半線。
再現せず。
十五回目。
透明石の端が一瞬曇る。
フィオだけが見る。
十六回目。
全員見えない。
十七回目。
尽が肩の力を抜き、息を吐いたあと、石の中央に白い糸が一本出た。
すぐ消える。
検流紐の赤珠と碧珠が、同じ方向へ四分の一線。
初めて、石の傷では説明しにくい位置だった。
もう一度。
出ない。
記録は三角。
十八回目。
白い糸。
二呼吸。
消える。
二回目。
出ない。
十九回目。
一回目、白糸。
二回目、針先の曇り。
三回目、なし。
二十回目。
三回のうち二回、白糸。
フィオは、ようやく〈本人由来の微弱反応候補〉と書いた。
魔力習得とは書かない。
石を光らせるには足りない。
導路へ流すにも足りない。
指先から外へ出たのか、身体の周りにある力を石が拾ったのかも分からない。
旧銀戒は灰布の下で温かくならなかった。
それでも影響を完全に排除した証明にはならない。
二十一回目。
フィオが石を二つ置く。
片方だけ触る。
触れた石に白糸。
触れていない石は透明。
二十二回目。
石の位置を入れ替える。
触れた方だけ曇る。
三回のうち二回。
初めて、条件を変えても同じ傾向が出た。
グランドーガは、練習札へ最小の白点を一つ刻んだ。
初級術者ではない。
魔法道具を自力で動かす許可もない。
ただ、魔力反応なしの欄から、微弱反応訓練中へ移った。
尽は嬉しかった。
できることは、昨日とほとんど変わらない。
それでもゼロと未検出の間に、細い一本が引かれた。
十二潮目の終わり、尽はグランドーガへ旅の話をした。
赤縁側。
人族地域。
基礎魔法を学べる場所。
工房。
短い期間。
戻る。
現地語と絵で紙を作る。
グランドーガは、その場で許可しなかった。
旅は、城外見習い一回の次に自動で開く工程ではない。
誰と行く。
どこへ泊まる。
何を学ぶ。
費用。
帰路。
連絡手段。
怪我。
荷物。
一つずつ問われる。
さらに、身分。
尽には氷風城の市民札がない。
炉環王国の出生記録も、どの国の旅券も持っていない。工房弟子札は工房内の作業資格と滞在保証を示すだけで、赤縁側の国境旅券にはならなかった。
グランドーガは炉環王国の〈保証旅札〉を申請した。
名前。
種族。
出身地。
人間とは書ける。
神戸は雷姆利亚の地図にない。
係員は勝手に氷風城生まれとせず、〈境界外来訪、出身地未照合〉と記し、最初の入城記録番号を添えた。
保証者はグランドーガ。
保証範囲は、尽が工房弟子であること、帰還連絡の最低費用、紹介状の真正。外で作った借金、喧嘩、違法品まで親方が全部負うわけではない。
旅札には期限があり、延長には現地の正式工房か宿の印が要る。旧銀戒の所有証明にもならず、各国の入境を必ず許す札でもない。
一枚で世界中の身分が決まるわけではなかった。
尽は、自分の名、境界外、工房弟子、期限の四箇所を三回読んだ。
尽の最初の計画は、半分が空欄だった。
〈人族へ行く〉だけでは目的地にならない。
赤縁側にも、帝国、自由諸邦、精霊領、公社、村、砦がある。
人族と呼ばれる側に、長耳も羽族も獣人もいる。
善人だけでもない。
通用する貨幣も、宿の規則も違う。
グランドーガは工房の古い取引帳を出した。
白羽自由諸邦の国境町、セレノ渡り。
鳥族と人間の商人が共同で使う宿駅。
そこに、風法具を扱う修理工房がある。
主人はグランドーガの昔の取引相手。
赤縁側の基礎魔法教師も、潮三回ごとに宿駅へ来る。
最初の目的地としては、大都市より近い。
グランドーガは紹介状を書いた。
内容をティムが読み、尽も分かる範囲を追う。
氷風城工房の弟子。
機械観察と記録を学習中。
魔力は微弱反応訓練中。
危険炉、武器、義肢の単独作業不可。
旧銀戒と境界外来歴は、紹介状へ書かない。
必要のない秘密まで渡さない。
旅程は、氷風城から赤縁側のセレノ渡りへ向かう認可商旅。
一人旅ではない。
宿駅まで二潮。
途中に正式休息所二つ。
帰りの商旅は三潮ごと。
旅費。
食費。
宿代。
荷物保証。
工房の賃金だけでは足りるが、余裕は少ない。
尽は、追加で六潮働くことにした。
旅費を借りれば早く出られる。
借金の条件を読めないまま急ぐより、待つ方を選ぶ。
六潮の間、旅行用の工具を整える。
全部は持たない。
基準棒。
歯形板三種。
小やすり。
挟み具。
低能発音札。
停止札。
粘土記録板。
灰白紙。
現地語単語帳。
防寒具。
水筒。
保存食。
工房紹介状。
地図。
家の鍵と白紙は、今度は持っていく。
数潮ではなく、氷風城を離れる旅になる。
止まった腕時計も腕へ戻す。
薯片については、正式に持出し審査を申請した。
尽一人の所有物。
しかし城内で危険物として隔離され、出力不明。
本人が持って出たいと言えば終わる話ではない。
メルダは、使用後六時間以上の全身脱力。
ボルンは、商旅全体を巻き込む誤射。
ガルドは、赤碧双方への未知反応。
グランドーガは、封を開ける必要がない旅程。
四者とも持出し不可。
完整二十七枚、大破片六、細片、落地二枚、包装袋。
すべて氷風城隔離庫に残す。
尽は不満だった。
自分の物なのに、手元にない。
それでも、危険が消えたわけではない。
今回の商旅は認可路。
護衛あり。
休息所あり。
薯片を使わなければ生き残れない旅程なら、そもそも許可を出さない。
尽は持出し不可札へ、自分で了承印を付けた。
最後の地図試験。
氷風城。
赤縁商旅厅。
セレノ渡り。
途中の二休息所。
帰路。
三枚の掲示方向を変えて、すべて正しく示す。
今度は一度も赤と碧を間違えなかった。
ティムが疑わしそうに、地図を裏返す。
裏には何もない。
「そこまでせんでもええやろ」
旅の許可札が出た。
期限は、セレノ渡り到着から六潮。
延長するなら、宿駅工房の保証印が必要。
帰らない自由まで奪われたわけではない。
ただし保証なしに期限を越えれば、氷風城の弟子身分と宿代保証が切れる。
自由には、記録と費用が付いていた。
出発前、共同室の棚を整理する。
フィオは羽根筆を一本くれた。
灰白紙には鉛筆より書きやすい。
バルクは小さな耐熱粘土を包む。
修理用ではなく、野営時に熱石を置く台。
ティムは新しい地図を渡した。
赤縁へ、大きな赤い丸。
碧縁へ、大きなばつ。
尽は笑った。
今回は、間違える要素がなかった。




