第二十四話 風向計は、赤い風を知らない
氷風城の赤縁門を出ると、空が広かった。
天井がない。
岩壁もない。
赤い太陽が氷原を横から照らし、反対側の空に碧い光の輪が薄く残っている。
城内で導光窓から見る赤とは違う。
雪面すべてが光を返す。
尽は護目鏡を掛けていても目を細めた。
最初にこの世界へ落ちたときは、魔狼と崖しか見ていなかった。
今は、風除け杭の番号、橇路の溝、赤灰の避難旗が見える。
同じ城外でも、知っている印が増えていた。
出発前に、ボルンが木駒を出す。
ボルン。
ガルド。
巡路者のミュル。
ティム。
尽。
五人。
橇は二頭の毛長角獣が引く。
牛に似ている。
角は前ではなく後ろへ巻き、鼻息が白い霧になる。背には赤い保温布。蹄の間に氷を掴む小爪がある。
尽は動物の名を聞く。
ティムの発音は〈ドルガ〉に聞こえた。
長さの単位と似ている。
単語帳へ耳と三角を付ける。
角獣の片方が、尽の防塵布を舐めた。
塩の匂いがしたらしい。
「食べもんちゃう」
角獣は聞かず、布の端を口へ入れる。
ミュルが乾いた草棒と交換するまで離さなかった。
出発前に、防塵布一枚が唾液で濡れた。
予備を持ってきた理由が、緑粉ではなく家畜になるとは思わなかった。
橇路は城門から緩く下る。
赤光が強い側ほど暖かいはずだが、風は冷たい。天脊氷環の高所を通る間に冷やされ、裂谷へ集まる。
風除け壁の影へ入ると静かになる。
出ると、橇全体が横へ押される。
尽は、地図と現場を照らす。
杭十二。
三本溝の壁。
黒三角の避難洞。
旧測鉱所は、次の尾根の向こう。
正しい。
ボルンは答えを求めない。
尽が自分から確認するのを待っていた。
途中、ガルドの探測輪が少し動いた。
赤針だけ。
即時帰還条件は、赤碧同時偏向。
ガルドは橇を止め、測る。
尾根の赤日晶が光を受けただけだった。
記録。
再出発。
一つ針が動けば、全部危険ではない。
同時条件でなくても、原因を確認せず進まない。
旧測鉱所は、石造りの小屋だった。
屋根に細い塔。
塔の上へ、矢羽根型の風向計。
外壁には風速輪。
内部に記録針と巻紙。
入口の半分まで雪が積もっている。
ボルンとミュルが周囲を先に一周する。
新しい魔獣跡なし。
雪崩亀裂なし。
屋根の風向計は、碧縁側へ向いたまま動かない。
実際の風は赤縁側から吹いている。
依頼通りの故障だった。
尽は橇を降りる。
平地。
杖。
痛みは丸。
小屋まで二十歩。
入口で休む。
三角にはならない。
作業開始。
梯子は禁止されているため、尽は屋根へ上がれない。
ティムが安全紐を付け、ミュルが下で支える。
尽は小屋内の指示器を見る。
記録針も碧を示したまま。
風速輪はゼロ。
屋根の羽根も、外壁の輪も両方止まっているなら、共通する伝達軸か凍結が疑われる。
しかし二つの機械は別の軸を使っていた。
共通するのは、外壁を通る細い保温管。
赤日晶の熱を塔と風速輪へ分け、氷結を防ぐ。
保温管の入口は温かい。
出口は冷たい。
途中で熱が通っていない。
尽は五段図を描く。
力源、赤日晶。
導路、保温管。
負荷、軸受け加熱。
返流、なし。
停止、入口遮蔽板。
熱を送るだけの系統で、返流はない。
それでも導路が詰まれば、二つとも凍る。
ティムが屋根から声を掛ける。
風向軸の外側に、白い羽根と乾いた草。
巣だった。
小さな氷嘴鳥が、保温管の出口近くへ巣を作っている。暖かい空気を求めたらしい。
鳥はいない。
卵もない。
古い巣。
巣材が出口へ入り、湿気を吸って凍った可能性がある。
ティムは巣を全部落とそうとする。
ボルンが止める。
現在使われていないか確認。
ミュルが遠くの岩棚を指す。
同じ白羽の鳥が二羽いる。
巣へ近づく様子はない。
ガルドは落ちた羽根と糞の新しさを見る。
少なくとも数双曜潮、使われていない。
巣材を袋へ移す。
捨てず、測鉱所の脇へ鳥用の風除け箱を一つ置くことになった。出口を塞がない位置に、暖気の細管を分ける。
機械を守るために鳥を殺す必要はない。
ただし、新しい箱を鳥が使う保証もない。
保温管へ乾いた空気を送る。
入口圧が上がる。
通らない。
巣材だけではない。
管の中ほどで固い抵抗。
小屋内の点検蓋を開ける。
青白い氷。
その中心に、細い金属片がある。
保温管の内壁から剥がれた薄板。
膨張と収縮を繰り返し、反って管を塞いだ。
巣材が湿気を増やし、剥離板が氷を受け止めた。
原因は二つ重なっている。
巣だけ除いても、次にまた詰まる。
薄板を挟み具で取る。
内壁を照らす。
赤光側だけ、継ぎ目が浮いている。
材料札を確認する。
古い単層黄銅。
赤光で広がる。
碧冷で縮む。
水量計と同じ問題に見える。
しかし、ここは寸法を正確に伝える歯車ではない。
熱を通し、内壁が剥がれなければよい。
双応黄銅で全部作り直すには、管を壁から外す必要がある。
今日の装備ではできない。
浮いた区間だけ切り、継ぎ手で交換する応急案。
交換材は、工房から持参した短い複層管。
長さが足りる。
ティムが切断位置を測る。
尽は、作業前に保温管の赤日晶を遮蔽する。
停止。
温度が下がるまで待つ。
切る。
古管。
新管。
継ぎ手二つ。
熱漏れを白粉で確認。
入口を開く。
最初は低い出力。
管の出口から、乾いた暖気が出た。
屋根の風向軸周囲の氷がゆっくり緩む。
ティムは槌で割らない。
急に衝撃を与えれば軸が曲がる。
温め、薄い木片で少しずつ外す。
風向羽根が動いた。
赤縁側からの風を受け、矢先が赤へ向く。
外壁の風速輪も回る。
小屋内の指針。
動かない。
外は直った。
内側の表示は碧のまま。
ティムが屋根から風向羽根を手で四方向へ回す。
尽は内部指針を見る。
赤。
動かない。
碧。
動かない。
横風。
わずかに震える。
伝達は、機械軸ではなかった。
風向羽根の下に四枚の方向石があり、どの石へ羽根の影が落ちるかで、細い光導路が内部指針を引く。
赤、碧、氷環東、氷環西。
尽は、赤石へ布を掛ける。
内部指針が少し戻る。
碧石へ布。
変化なし。
四枚を一つずつ隠す。
横風石二枚では指針が動く。
碧石だけ、反応しない。
碧を示したままなのに、碧石が死んでいる。
矛盾して見える。
指針箱を開ける。
碧方向の返流糸が切れ、ばねが初期位置へ戻れなくなっていた。初期位置そのものが碧表示だった。
外部入力がないと、碧を示す。
故障時に安全側へ倒す設計らしい。
なぜ碧が安全なのか。
旧測鉱所は赤縁側にある。
碧から強風が来ると、氷風城へ吹き込む。鉱石輸送を止める必要がある。
入力を失ったときも碧風警報にしておけば、危険を見逃さない。
ただし故障と本物の碧風を区別できない。
記録巻紙を見る。
何潮も碧風が続いている。
その間、鉱石路は閉鎖されていた。
安全側故障は人を守った。
同時に、長い輸送停止を起こした。
尽は返流糸を交換する。
切れた糸と同じ材質ではない。
赤碧変化の少ない中立繊維。
長さを合わせる。
ティムが風向羽根を四方向。
内部指針も四方向。
一周。
二周。
三周。
追従する。
風速輪は、既知の手回し回数で指針を校正。
記録巻紙へ、修理時刻と故障区間を刻む。
碧固定が始まった最初の時点は分からない。
最後の正常点と、最初の連続碧点の間を三角で囲う。
その区間の風記録は不確か。
消さない。
正しい記録としても使わない。
作業が終わる前、赤光が急に薄くなった。
尾根の向こうから白い壁が来る。
雪煙。
ボルンが停止札を上げた。
即時帰還条件の視界消失。
ティムは、鳥用風除け箱の固定をあと一本だけ締めたいと手を伸ばす。
ボルンが名前を呼ぶ。
ティムは工具を置く。
尽も記録板の最後の一行を書きたかった。
書かない。
人を数える。
ボルン。
ガルド。
ミュル。
ティム。
尽。
五人。
小屋の扉を閉める。
橇へ走らない。
尽は走れない。
ボルンとミュルが両側へ付き、決めた歩幅で戻る。
痛みは丸。
橇へ乗る。
角獣の向きを避難洞へ。
吹雪が道を隠す前に、黒三角へ入った。
鳥箱の最後の固定。
記録の一行。
どちらも残った。
誰も戻らない。
避難洞で、風の音を聞く。
旧測鉱所の修理したばかりの風向計が、外で動いているはずだった。
今の風を正しく記録しているか、ここからは見えない。
確認できないものを、動いていると決めない。
吹雪が弱まったあと、ボルンだけが洞口から測鉱所の遠隔警告板を見る。
赤い故障灯なし。
風速は高い。
視界は回復傾向。
帰路を選ぶ。
測鉱所へ戻らない。
鳥箱と記録は、次の巡路隊が確認する。
氷風城へ帰る。
城門で木駒を出す。
五人。
同じ名前。
工具箱は、細い締め具一本を測鉱所へ残した。
記録板の最後の行は空白。
人は全員いる。
それで帰還確認は成立した。
メルダが左膝を診る。
腫れは、出発前より少し増えている。
痛みは三角に達していない。
次の一潮は外出禁止。
その後、再評価。
城外見習いに一度行けたから、治ったわけではない。
グランドーガは現場記録を読む。
保温管の応急交換。
風向返流糸の交換。
不確かな記録区間。
吹雪による作業中止。
残置工具一本。
未固定の鳥箱。
全部を修理完了札へ書き込む。
白札ではない。
黄札。
次回確認あり。
尽は、城外へ出ればもっと自由になると思っていた。
実際は、城内より多く止まり、確認し、残して帰った。
それでも、赤い空の下で自分の描いた図が現実の風向計を動かした。
その感覚は、工房の練習板とは違った。
翌潮、巡路隊から短い報告が来る。
鳥箱、固定完了。
締め具、回収。
風向計、赤・横・碧すべて追従。
強風記録、正常。
応急管、漏れなし。
一回の確認。
永久保証ではない。
尽は報告札を、自分の最初の城外記録へ重ねた。
次に行きたい場所は、赤縁側の人族領だった。
地図にも、赤い印を付ける。
ティムが横から覗き込み、地図の向きを確かめた。
今回は合っていた。
まだ、今回は。




