第二百十六話 曲がり角の内側
朝、ユーノは机の上で小さな石を六つ並べた。昨日、鏡に映った岩道の床だ。格子から曲がり角まで、踏めそうな敷石は六枚。板の文字には「一段先、床を打って確かめる」とある。彼女は六つ目だけを指で倒し、もう一度立てた。
「ここから先は見えていない」
ペペが石を一つ足しかけて、やめた。昨夜のうちに作った長い叩き棒を持ち上げる。先端は石を傷つけないよう革で包んである。格子越しなら六枚目まで届くはずだった。
隣の鍛冶室には、昨夜遅くまで灯がついていた。石工が格子の錠の型を写し、鍛冶場で合わせ鍵を一つ作ったのだ。試す時に折れないよう、柄は太くしてある。ペペが持つと、鍵というより小さな火かき棒に見えた。
「開かなかったら?」
「そこでやめる。錠を壊して入る日は今日じゃない」
ナディアは鍵を受け取り、布へ包んだ。ペペは返事の代わりに叩き棒の革を締め直す。
ナディアは条件を読み上げた。東路の羽根、西口の紙、石切場の短冊を同時に見張る。北の雲が尾根へ掛かったら作業を止める。格子を開けても、曲がり角の先へ足を出すかは現場で決める。セレーネは風晶片の保存箱を学院に残し、伝声の中継だけを受け持った。
石切場の外縁に着くと、リュオが木組みの目印を鏡で読んだ。夜の間に格子との隙間は縮んでいない。石工は下側の詰め石を外し、小部屋の床と出口の白線を確かめる。いつもどおり奥へ吸われる風が、灯の火を細く倒した。
格子の錠は、油を一滴入れてしばらく待つと動いた。石工が合わせ鍵を回す間、ペペは縄を鉄の縦棒へ結び、尾根の森守へ端を渡す。格子は奥へ開く。開いた拍子に風へ引かれないよう、縄を二本に分けて持った。
「こういう時、俺の結び目は多い方がいいだろ」
「ほどく時刻も考えて」
リゼッタが返す。ペペは結び目を一つ減らし、余った縄を腕に巻かず床へ置いた。尽はその様子を見て、自分の首紐だけは服の中へ入れた。奥の岩に引っ掛けるつもりはない。
格子は指三本分だけ開いた。木組みの梁には触れない。石工が細い棒を通し、一枚目から順に床を打つ。三枚目だけ低い音がした。鏡を差すと、敷石の下に点検用の空間があり、端には小さな銅の蓋が見える。割れてはいないが、荷重を掛けずに済むなら避ける。ナディアは踏む場所を左右に分けて記した。
六枚目の向こうは棒が届かない。石工は小部屋へ戻ってから、格子を人一人分だけ開いた。奥の道へ入ったのは石工、ナディア、尽、リゼッタの四人。ユーノとペペは格子の外に残り、伝声石と二本の縄を見張る。呼べば聞こえる距離で止まる。
奥の岩道は肩をすぼめれば通れた。床の右側に細い溝があり、乾いた砂が溜まっている。尽は三枚目をまたぎ、石工の打つ音を一歩ごとに待った。曲がり角で壁の板が見える。泥の下の字は、格子から読んだとおりだった。板の先、床が一枚だけ暗い。
石工が叩く。鈍い。
「ここも下が空いてる」
四人は手前で止まり、長い鏡を曲がり角へ回した。暗い敷石の横を避ければ、足を置ける狭い縁がある。その先は部屋ではなく、岩をくり抜いた小さな作業座だった。壁に重りと短い鎖が吊られ、奥の丸い穴には石の羽板が斜めに掛かっている。羽板の向こうは、灯を入れても底が見えない。
風が通るたび、鎖の輪が岩へ触れて小さく鳴った。格子の前で聞いた一打と似ている。リゼッタが尽を見る。尽は「たぶん、これだ」と言いかけ、口を閉じた。格子の留め棒も錆びていた。音が似ているだけで、右肩の傾きまで説明できない。
羽板の脇に、二本の短い文字が刻まれていた。〈通常、北口を開く〉。その下が〈逆流、北口を閉じる〉。石工は鏡の柄で羽板に触れず、鎖と重りを見た。重りは途中で止まり、羽板も穴を半分塞いだ姿勢のままだ。鎖の下に、天井から落ちたらしい石片が挟まっている。
「雷の日、閉まるはずのものが、ここで止まってたのか」
ナディアが問う。石工は頷きかけ、首を傾けた。文字は動かす向きを示すが、この装置が自動で動いたか、番人が手で動かしたかは分からない。鎖を引くための取っ手は、見える範囲にはない。石片がいつ挟まったかも不明だ。ただ、今は羽板が途中で動けなくなっている。
尽の指輪が、じわりと温かくなった。雷はない。風晶片もここにはない。彼は作業座の入口から二歩戻る。温かさが少し薄れた気がしたが、比べるには回数が足りない。今は石片に手を伸ばさない方が大事だった。
外から伝声が来る。東路の羽根は谷側、西口も普段の向き。北の空にはまだ雲がない。ナディアは石片と鎖の位置を写し、敷石の縁へ踏み込まずに引き返した。格子を閉める時、ペペが縄を巻く手を止めて四人の人数を声に出す。石工、ナディア、尽、リゼッタ。最後の一人が白線を越えてから、錠を掛けた。
*
学院へ戻ると、ユーノは風井の図に北口の羽板を書き足した。石切場から十五尺下の横穴、杉の下の点検口、東西の石管。これまで別々に見た場所の間に、初めて動く部品が入った。半開きの羽板が雷の日の逆流を強めたかどうかは、風の量を測らなければ分からない。
セレーネは図を見て、最初に格子を閉めたかと聞いた。ナディアが鍵を机に置く。泥は付いているが、歯は欠けていない。格子の新しい木組みも残したままだ。セレーネはようやく椅子へ座り、石工が描いた羽板の向きを一度だけ指でなぞった。伝声石越しに人数を数える声を聞いてから、ずっと立っていたらしい。
ペペは床に六つの石を並べ直し、三枚目と曲がり角の一枚を横へ除けた。残りの間を指二本で歩かせてみる。自分の指は通る。実際の靴では、避ける縁はずっと狭い。
「次は石をどける?」
「支えなしには触らない」
石工が答えた。落ちた石片を抜けば羽板が急に動くかもしれない。格子の右上もまだ弱い。先に作業座の床を支え、羽板がどちらへ倒れるか外から読めるようにする。ナディアは閉鎖札をそのままにし、必要な木と長い鏡を石工へ頼んだ。
尽は最後に、指輪が温かくなった位置を図の余白へ書いた。北口の向こうには、人工の壁が途切れた暗い岩が続く。今日分かったのは、そこへ掛けられた羽板が半分で止まっていることだ。地底の風がどこから来るかは、まだ見えていなかった。




