第二百十一話 鐘の鳴らない雷
翌朝、ペペは工作室へ入るなり、濡れた靴を片方だけ脱いだ。
「西口、見てきた。木枠は平気。靴の方は平気じゃない」
リゼッタが床へ落ちた泥を指さす。ペペはもう片方も脱ぎ、戸口に並べた。夜半に降った雨で、学院の裏道には細い水筋が何本もできている。山の北には、昨日と同じ色の雲が残っていた。
ユーノは三つの見張り場を描いた板を机に広げた。西の逃がし口、東路の二段目、石切場の外縁。昨日は別々の森守から、風が変わったとの知らせが届いた。時刻を揃えると、西口の針が先に山側へ振れ、石切場の短冊が外へ翻ったのは、その少し後だった。東の石段には誰も近づけていない。そちらの向きは、まだ空欄だ。
「今日は雷が来ても、鐘は鳴らないんだよね」
ペペが窓の外を見た。赤と碧の陽は互いに離れ、台座に二つの影が重なる時刻は過ぎている。リュオは頷いた。
「だから目で見る。鐘の番を増やしても、雷は教えてくれない」
ナディアは森守を三組に分けた。石段の閉鎖線を越えないこと、西口では木枠より内側に手を入れないこと、石切場は塞いだ石の外から見ること。尽たちは西口を受け持ち、セレーネとリュオが学院から伝声を繋ぐ。ナディア自身は東路の上の安全な見張り台へ行った。
昼前までは、雨が葉の裏を叩くだけだった。逃がし口の木枠には石工が前日に増した横木が一本ある。ペペは継ぎ目を眺め、曲げた釘を使わなかったことを小声で自慢した。
「一本でも使ってたら、今日こそ俺のせいになった」
「自分で曲げたんでしょう」
リゼッタが返すと、彼は横木を指して「でもこっちはまっすぐだ」と言った。尽が笑いかけた時、尾根の向こうで光が一度だけ走った。音が届くより早く、ユーノが板の端を押さえる。
雷鳴が低く続いた。逃がし口から外へ揺れていた草の穂が、ぴたりと止まる。次の息で、穂先が木枠の奥へ引かれた。
「下がって」
尽が声を上げる。濡れた落葉が斜面を滑り、枠の隙間へ集まった。石を支えていた横木は動かないが、木枠の前へ立てた軽い目盛板が倒れ、吸い込まれかける。ペペが反射的に手を伸ばし、リゼッタに襟を掴まれた。
「板は後」
「分かった、分かったから首を放して!」
尽は二人の足元へ細い風を流した。目盛板を拾うためではない。顔へ飛んでくる砂を斜面の脇へ逸らし、後退する道を空けるためだ。ペペは襟を放されてから、自分の手がまだ板の方を向いているのに気づき、拳を握った。
伝声石が鳴る。東の見張り台にいるナディアからだった。
『二段目の紙も石の割れ目へ引かれている。石は動いていない。全員、線の外にいる』
ユーノが時刻を記し終えぬうち、今度は石切場の森守から知らせが来た。塞いだ白い石の目地で、雨水が外側へ細く押し戻されている。三か所とも昨日と同じ向きだ。昨日より長い。
西口では落葉が枠の前に積もり、吸い込まれる風を弱め始めた。ペペが遠くから見ても分かるほど、別の細い隙間の草だけが強く揺れる。
「ここを塞いだら、東へ行くのか」
「分からない。でも今、試す話じゃない」
リゼッタは落葉を払いに行こうとするペペの前へ立った。木枠を支える石の状態を、こちらからは確かめられない。尽も風で葉を吹き飛ばすことはしなかった。細い隙間へ力を集中させれば、弱っている目地を叩く。三人は森守と一緒に、さらに上の岩へ退いた。
*
雷は二度目で近くなった。尽の胸元が熱い。首紐の指輪を服の上から押さえると、雨に冷えた指先にも温かさが分かった。ユーノは顔を上げず、時刻だけを板へ刻む。指輪が温まったのは二度目の音より前か後か、尽自身にも言い切れない。
西口の落葉がふっと浮いた。風が元の谷側へ向き、詰まっていた葉を外へ吐き出す。ペペは岩の上で膝を折ったまま、その一枚が水たまりに落ちるのを見届けた。
「戻った?」
「まだ近づくな」
ユーノが言う。数呼吸後、短い逆風がもう一度来た。今度は目盛板の残った紐が枠へ吸われるだけで、長くは続かない。石切場の森守も、雨水が目地の外へ出たり止まったりしていると知らせた。ナディアは三組へ、風が落ち着いてもその場で作業を始めないよう伝えた。
雲が尾根を越えた頃、雨脚はかえって弱まった。西口の木枠は傾かず、東の石段にも新しい崩れは見えない。石切場の詰め石も位置を保っていた。尽たちは森守が遠くから確認した後、道具を取りに戻ることだけ許された。ペペの目盛板は水たまりの底にあり、数字の半分が泥で消えている。
「書き直す。今度は縄を長くする」
ペペは板を拾い、リゼッタの視線に気づいて付け加えた。
「嵐が終わってから、外で」
学院では、濡れた地図の端を石で押さえながら報告を合わせた。東の紙は内へ、西の草も内へ、石切場の水は外へ。石段の地下と西口から入った空気が、すべて石切場を通って出たとまでは言えない。見張ったのは三つの表面だけで、格子の向こうも風井の底も見ていない。それでも雷の間、危ない場所が鐘を鳴らさずに変わることは、三組が同時に見た。
セレーネは古い通行止の札の裏へ、新しい文を一行書いた。〈遠雷時も東路閉鎖。西口、石切場へ近寄らず〉。山道に掛ける札は雨に強い板で作り直す。木炭を運ぶ荷車には、これまでどおり学院の裏門を使ってもらうことにした。
「昨日の銅板は、見張る人が先に退くためのものだったんだね」
ユーノが写しを畳む。ペペは泥の残る目盛板を壁に立てかけた。
「昔の人、雷の日にここへ立ってたのか。嫌な仕事だな」
リュオは返事の代わりに、鐘小屋へ持って行く新しい短冊を二本渡した。一方は西口、一方は石切場の外側につける。紐は長く、離れた見張り台から向きを読めるようにする。ペペは長さを測ってから、「これは俺でも届かない」と笑った。
夕方になっても、尽の指輪には少し熱が残った。雨は止んでいる。彼は指輪を外して冷えた机に置き、温かさが消えるまでの時刻をユーノに頼んだ。雷からずいぶん経っているのに、指輪だけがすぐには冷えない。ユーノはその事実を記し、何に応じているかの欄は空けた。




