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第二百十話 雷の後の矢印

朝の鐘小屋で、リュオは木片を抜かなかった。吊り金具の下へ鏡板を立て、台座の二つの弧にも森守を置く。赤い陽の影が先に通り、碧の影が遅れて入る。今日は互いの端が触れない。黒い輪は暗いまま、鐘の舌も動かなかった。


 その翌日も同じだった。西の逃がし口には弱い風が残り、東路の石段はまだ立入禁止だ。ナディアは二日分の記録を見て、石切場の外側だけを開けると決めた。内縁の奥へ人を通す話はしていない。


 石工は白い詰め石を抜く前に、浮いていた留め具へ木枠を掛けた。柱を岩の健全な部分へ突っ張り、杉の根には釘を打たない。ペペは工具袋から釘を出し、一本目でまた曲がったものを選んだ。リゼッタが黙って別の一本を渡す。彼は礼の代わりに、曲がった釘を袋の底へ押し込んだ。


 石切場へ通じる尾根には森守が立ち、荷車の迂回路はそのまま開けてある。尽たちは北の棚で待った。石工が下側の詰め石一枚を外すと、内側から風が少し吸い込む。重影期のように短冊を引きちぎる強さはない。ペペは新しい紙片を目地に吊し、外した石は木のそりで平らな岩まで運んだ。


「中は、すぐ部屋になってる」


 灯を入れた石工の声が石に返る。鏡を差し込むと、奥行き三歩ほどの小部屋と、さらに奥を塞ぐ鉄格子が見えた。床は古い敷石で、両側の壁に大きな割れはない。石工が一本ずつ敷石を叩き、ナディアは出口へ繋いだ縄を手で持つ。安全を確かめたところだけ踏み、石工、ナディア、尽たちの順に入った。セレーネとリュオは外で灯と伝声を受け持つ。


 部屋の天井は低く、ペペが立ったまま額をぶつけた。


「これ、昔の人はみんな小さかったのか?」


「今のあんたも、かがめばいい」


 リゼッタに言われ、彼は片手で頭を押さえながら歩く。鉄格子の向こうは岩を削った通路で、足元から風井へ続くらしい細い穴が開いていた。先日、風井へ下ろした灯が見た横穴の高さに近い。だが、格子の錠は岩に食い込み、開く構造のまま残っているだけだ。誰も触れなかった。


 壁には薄い銅板が三枚並んでいた。一枚目は日ごとの風の向き。二枚目は赤と碧の陽の影が重なる時刻。三枚目だけ、題が短い。


〈遠雷の後〉。


 ユーノが灯を斜めに当てる。小さな矢印は、普段なら石切場から風井へ向かうはずの線を、逆にたどっていた。矢印の横に、観測した日の印が三つある。どれも同じ季節ではない。台座の二つの弧が働く日とも重なっていなかった。


「雷が鳴ると、風が反対になる?」


 ペペの声が低くなる。尽は格子へ寄り、胸元の指輪に触れた。冷たい。地球で雷を受けてこの世界へ来た夜を思い出すが、銅板に書かれたのは風の向きだけだ。誰かが人を通した記録ではない。


 リゼッタは三つの印を写し、板の下端を見た。古い字で〈逆流時、内縁を閉じ、外縁へ退く〉とある。内縁は目の前の格子、その先の岩の道。外縁は杉の下で見つけた風井の点検口だろう。道を開くための手順ではなく、見張る者の退き方だ。


 ユーノが鏡板を格子の前へ立てた。普段の風は、石切場の方から奥へ流れている。細い糸が鉄へ貼りつき、離れない。三つの古い印を今の記録へ写す間、ペペは格子の下で、銅板の留め具と同じ細い釘を一本見つけた。先が丸く摩耗している。拾わず、床に印を置いた。


   *


 外へ戻ると、空の北端に灰色の雲が低く掛かっていた。雨にはまだ遠い。ナディアは石工に詰め石を戻す準備を頼み、ユーノが写しを確かめるのを待つ。外側の部屋を見たからといって、鉄格子を開ける許可にはならない。


 ペペがそりへ腰を下ろした途端、遠くで雷が一つ鳴った。皆が顔を上げる。地面は揺れず、雨粒も落ちない。だが石切場の目地に吊した短冊が、岩から離れて外側へ翻った。


「逆だ」


 リュオが声を出す。数呼吸前まで石の方へ吸われていた紙が、今は尽たちの方へ吹かれている。風井の点検口を見張っている森守からも、上向きだった糸が横へ流れたと伝声が来た。鏡板の針は、西の逃がし口で谷側ではなく山側を向く。


 尽の指輪が熱を帯びた。胸から離し、リゼッタに見せる。雷の音だけで温まったのか、風の逆流に応じたのか。ここでは二つがほとんど同時に起きた。ナディアは答えを探す前に、全員を棚から離した。


 石工が木枠を外さず、詰め石を仮の位置へ戻す。目地の短冊は外向きのまま、やがて垂れた。遠雷は一度きり。森守が広場と西口の支えを確かめ、どこも動いていないと知らせてから、ナディアは外側の見張りを残して下山を始めた。


 帰り道、ペペは銅板の写しを濡らさぬよう外套の内側へ入れた。雲は北の尾根を越えず、学院の方にはまだ陽が差している。尽の指輪は冷え始めていた。ユーノの板には、雷の時刻と短冊が翻った時刻が、別の行に並んでいた。


   *


 学院で写しを乾かすと、三つの古い印の脇に、風が外へ向いた時の長さも刻まれていると分かった。いずれも長くは続かない。今日の短冊も数呼吸で垂れた。ユーノは古い三本の矢印の下へ、四本目を描く。赤と碧の影がもう重ならない日に、雷を聞いた後だけ風が逆を向いた。


「鐘とは別の合図だったんだな」


 ペペは写しの上へ指を置きかけ、石切場で汚れた指先を見て引っ込めた。リゼッタが布巾を渡す。風井の空気は陽の影を隠しても流れ、雷の後には向きまで変わった。台座の輪は今日は暗い。尽は首から指輪を外さず、熱を感じた時刻だけを試験票へ書いた。


 ナディアは石切場の外側を再び塞いだと伝え、翌日の見回りを森守へ頼んだ。雷が遠くても風は逆を向く。奥の鉄格子へ人を入れる手順は、今ある帳面にはない。ペペが四本目の矢印へ小さな日付を添えると、ユーノはその横に、今日の空の色を薄く塗った。

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