第二百九話 外された端片
翌朝、フィオナは工作室の古い帳面を三冊持って来た。石切場の扉を埋めた年を探すなら、森道図より工事簿の方が確かだという。机の上には昨日の短冊と、ユーノが写した〈風井内縁〉の字。ペペは一冊目を開いた途端、細かな石灰を浴びてくしゃみをした。
「その頁、誰も触ってないみたい」
リゼッタが窓を少し開ける。フィオナは布を渡し、頁の端を押さえた。旧道が使われなくなる前の工事が、月ごとに並んでいる。石切場の南壁が落ちた日の欄には、運び出した石の数と、怪我をした作業員一人の名があった。内縁の扉を埋めたのは、その事故の翌年だ。
「落石で塞がったわけじゃないのね」
セレーネが図を寄せる。工事簿には、扉の外へ白い詰め石を三枚入れ、開閉の留め具を残したとある。先日見た形に合う。理由の欄は短かった。〈双陽期、吸風強し。内縁点検を休止〉。扉を壊して封じたのではなく、季節の間、人が入るのを止める工事だった。
「じゃあ、季節が過ぎたら開けた?」
尽が聞く。フィオナは次の頁を探した。後年の点検印は二つだけで、どちらも外側の留め具を見た印だ。詰め石を外した記録はない。点検を再開するつもりだったのか、再開できなかったのか。帳面はそこまで答えない。
ユーノが別の頁を見つけた。工事の翌月、山側の台座から風晶の端片を取り外す作業が載っている。幅と厚さを写した小さな絵には、鋭い三角の縁と、二本の白い筋。一本だけ途中で曲がっていた。
保存担当は風晶片の封じた箱を卓へ運んだ。開けずに向きを合わせる。白い筋の折れと茶色の層は、昨日まで何度も見たものだった。絵の縁の小さな欠けも同じ場所にある。尽が風見塔で拾った片だ。
「割れて、落ちたんじゃなかったのか」
ペペが絵の脇を読む。〈母材上縁より端片を外す。外した後、鐘の力を再測。東路通行止は継続〉。工具の名まで書いてある。端片は事故で失われたのではない。作業員が取り外した。
リゼッタは母材の欠けを描いた板と、工事簿の絵を重ねた。古い絵は正確だが、工具を入れた場所は描かれていない。なぜ外したかは次の欄にあった。〈風井の吸風が強い間、母材を小さくして鐘の出力を抑える〉。鐘を完全に止めるとは書かれていない。
去年の記録では鐘は鳴らなかった。今年は端片がないまま、金具を動かすほど光が届く。尽は工事簿の短い説明をもう一度読んだ。古い作業が失敗したと決めるには、当時の風の強さが分からない。だが端片を戻してよい状況でないことは、今の石段を見れば分かる。
「これ、外した後はどこへ」
保存担当が頁の下を指す。〈照合用としてソラヴェイン風見塔へ送付〉。受領の欄には風見塔の印があり、通行した境の詰所も記されていた。公の運搬だった。返送日は空白。予備片が東路三番へ届かなかったと王家の修理票にあったのは、別の片の話かもしれないが、この端片も山へ戻されていない。
ペペは初めて尽の箱を見た時のことを思い出した。「塔で拾った時、誰かが隠したのかと思った」
「塔までは帳面にあるわ。その後の置き場所は、塔の記録を見ないと」
フィオナが答える。尽たちの一往復の通行証は、王子の件を終えて戻った時に使い切った。今すぐ塔へ行く道はない。セレーネは風見塔の保管担当へ、当時の受領票と移し替え記録の写しを求める文を作り始めた。書き終えるまで、ペペは箱の封に触れずにいた。
「王家の修理票には、予備片が来なかったって書いてあったよな」
ペペが机の隅から写しを引っ張った。フィオナは二枚の品目を並べる。工事簿の〈端片〉は母材から外した現物で、送り先は風見塔。修理票の〈予備片〉は東路三番へ届ける予定の品で、形も大きさも記されていない。二つが交換用の一組だった可能性はあるが、同じ箱として扱う根拠はなかった。
ユーノは写しの番号へ細い丸を付けた。端片の受領印はある。予備片の欄には、届かないまま後日確認するとだけ書かれていた。どちらか一方の紙から、もう一方の行方まで埋めることはできない。ペペは「じゃあ、箱は二つだったかもしれないのか」と言い、写しを元の位置へ戻した。
*
午後、ユーノは工事簿の寸法を山の図へ入れた。端片を外す前と後の測定値が、帳面の裏に並んでいる。鐘の舌が動く幅は小さくなり、石管から出る風の量はほとんど変わっていなかった。
「あの時も、鐘と風は別々だったんだ」
尽の言葉に、ユーノは頷く。二つの陽の影を遮った試験と同じだ。風井が息をして、台座はその時刻を鐘へ伝える。端片は鐘の力を調整するために外され、風そのものを止める物ではなかった。
石切場の短冊は、乾くと端が波打った。リゼッタは指で押さえ、昨日の目地に描かれた矢印の方へ紙の先を向けた。強い吸風の季節に、人があの扉を開けたら何が起きたのか。工事簿には事故の名も人数も載っていない。南壁の落石と同じ時期だが、原因を一つにはできなかった。
ナディアが工作室へ来た。森守の見回りでは、西の木枠は保たれ、東路の二段目はそれ以上落ちていない。だからと言って道を開ける話にはならない。彼女は工事簿の〈通行止は継続〉を読み、今の閉鎖札の位置を地図で示した。
「私たちが直したのは、逃がし口だけ。内縁の石は触らない」
ペペは布巾で石灰の付いた鼻を拭いた。口を開きかけたが、代わりに工事簿を閉じるのを手伝う。尽は保存箱と古い絵を見比べた。欠片が塔へ送られた理由は分かった。山へ戻さなかった判断が今も正しいかは、風井の内側を知らないまま決められない。
夕方、フィオナが塔宛ての封を持って来た。セレーネの署名の下へ、保存担当が風晶片の現在の封番号を書き足してある。尽はその番号を読み、箱を棚へ戻した。窓の外では、赤い陽が先に森の端へ沈み、碧の陽だけが工作室の床に細い光を残していた。




