第二百三話 白い筋と西の鐘
学院の保存室では、風晶片を箱から出さなかった。保存担当が封の番号を読み、透明な蓋の外へ薄い目盛板を立てる。ユーノは山で写した鏡板をその後ろへ重ねたが、欠け目の輪郭は合っても、割れ面の模様までは見えない。
「ここが白く見えたんだけど」
ユーノの指が鏡板の隅で止まる。昨日の灯が石蓋に反射した線かもしれない。ペペは横から目を細め、「白い筋なら欠片にもある」と言った。保存担当は箱を半回転させた。尽の欠片の鋭い端には、表から裏へ抜ける細い白筋が二本ある。一本は途中で折れ、もう一本は端までまっすぐ延びていた。
「昨日の絵だけで合わせるのは無理ね」
リゼッタが目盛板を返す。そこで話を終わらせず、セレーネはナディアへ連絡を頼んだ。石蓋を開け直すなら、陽の影が弧に届く前。前回の支えを石工に確かめてもらい、蓋の外から見るだけにする。
翌朝、ペペは灯の竿ではなく、小さな反射鏡を三枚抱えて山へ上がった。一枚目を石工が蓋の隙間へ入れ、二枚目で光を折り、三枚目をユーノが手元で動かす。尽は封じた箱を赤紐の外に置いたまま、石の中へ風を送らなかった。
「あ、いまの角度。戻して」
母材の欠けた壁が明るくなった。白い筋が一本、欠け目の上縁から走り、途中で小さく曲がって消えている。下縁には別の白筋がまっすぐ届いていた。ユーノが二本の間隔を板に取り、鏡を替えて反対側からも見る。石工が腕を休めるたび、ペペは鏡の向きを覚えておこうと、地面に棒で三つの丸を描いた。二度目は丸を踏んで消し、リゼッタに笑われた。
保存担当は携行箱をユーノの板の横へ置いた。欠片の幅と角度を合わせると、曲がった白筋の先が上縁の線に続き、まっすぐな方も下縁へつながる。箱を裏返す代わりに鏡を回し、裏面の細い茶色の層も確かめた。母材の欠け目には同じ層が、二本の白筋の間を横切っていた。
「同じ塊から割れたものです」
保存担当が言い切った。目盛板に写した長さだけではなく、二本の筋の曲がり方と茶色の層の位置まで一致する。風見塔で尽が拾った欠片は、この台座の母材から失われた部分だった。
ペペが箱を見下ろした。「じゃあ、戻せば東の道も光る?」
「欠け目は母材の上。東の銅線が切れているのは、その先よ」
リゼッタが昨日の図を広げる。欠片を嵌めても切れた銅線はつながらない。しかも西の道には、昨日、太い光が流れた。そこへ何が接がっているか知らずに母材の形を変えるわけにはいかなかった。
尽は箱に手を伸ばしかけ、やめた。昨日、胸元の指輪まで熱くなったことを思い出す。今は布の下で冷たい。欠片が元の場所に戻りたがっているように見えても、それは尽の感じ方だ。箱の中で起きた動きと、装置に入れた時に起きることは同じではない。
ナディアは石蓋を閉めさせ、支えを再点検した。保存担当は欠片を学院へ戻す。ユーノの板には、母材と欠片の一致した三本の印だけを赤で残し、東の切れた銅線には別の色を使った。
「次は西ね。あの線がどこへ行くか、地上で辿れる?」
セレーネの問いに、リュオは古い道の地図を広げた。山側の台座から西へ、今は使われない水路が一本延びている。線が重なるのは最初の百歩ほどで、そこから先は土砂で見えない。リュオは水路の入口を指し、足場を調べるなら森守を連れて行くと言った。
下りの石段で、ペペは何度も後ろを振り返った。「合うって分かったのに、置いて帰るの、変な感じだな」
「持って帰ってるよ」
尽が箱を指すと、ペペは「そっちじゃなくて」と言いかけ、やめた。山の上には母材が残り、西へ続く銅の道はまだ暗い。リゼッタが先の赤紐を持ち上げ、二人を一人ずつ通した。
*
旧水路に水はなかった。昨夜の雨だけが石の継ぎ目に残り、底を歩くペペの靴を汚した。上から見れば幅の広い溝だが、両側には肩まで伸びた草がある。リュオは先へ出る前に、森守と一緒に土砂の積もり方を確かめた。
「ここを掘るの?」
「まだ。銅が水路に沿っているのは、最初だけかもしれない」
ユーノは台座から測った方位を細い紐で延ばした。尽が片端を持ち、リゼッタが見通しのよい石へ移る。百歩ほど先で、水路は杉の根に押されて南へ曲がった。紐の方は西へ進む。土砂の上に銅は見えない。
ペペが靴底をこすっていると、苔の間から四角い石の角が出た。何かを蹴ったらしい。リゼッタが小枝で周りを払う。手のひらほどの蓋石に、小さく〈西受一〉と刻んであった。蓋を持ち上げようとしたペペの手を、ナディアが止める。
「足を退けて。下が空いてる」
森守が長い棒を横へ通した。石の下には狭い点検溝があり、蓋の片側に古い蝶番が残っていた。崩れた縁を板で押さえてから、石工が蓋を数寸だけ起こす。ユーノの鏡を差し込むと、銅の細い帯が東から入り、水路を離れて西の土手へ抜けていた。帯の上に泥が乾いて固まっている。ここで誰かが触れた跡は見えなかった。
「受け、って何を受けるんだ?」
ペペの問いに答えたのはリュオだった。森守の古い地図で、この先に同じ字の小屋があるという。今は雨宿りに使うだけで、屋根の上の鐘は鳴らないと聞いていた。
水路の南へ折れる道を避け、土手の上を歩いた。根の張った所では一人ずつ通る。ペペは最初、銅帯のありそうな真上を選んで進んだが、二度足を滑らせてから森守の後ろへ戻った。尽も紐を巻き取る。土の中を見透かせるわけではない。
小屋は昼前に見つかった。扉は取り外され、壁には森守が使う薪が少し積んである。軒先から下がる鐘は、ペペの拳ほどの青黒い金属で、舌が木のくさびに挟まれていた。風が吹いても鳴らないはずだ。リュオはくさびを指で押し、乾いた木の色を見た。
「去年、屋根を直した時には、これを入れていなかった」
ナディアは木に触れないよう言い、小屋の床下を見てもらった。石工が外側の板を一枚外すと、点検溝と同じ幅の銅帯が現れた。帯は柱を上がり、鐘の吊り金具で終わっている。小屋と山の台座は、一本の西線でつながっていた。
「鐘まで生きてるの?」
「線はここまで来ている。鳴るかは、まだ別だ」
ユーノは鏡板を金具の下へ立てた。赤い陽の影が小屋の床を横切り、碧の陽の影が遅れて柱へ寄る。台座の弧が重なる頃合いを、昨日の時刻から計っていた。皆が鐘を見上げる。ペペだけはくさびに目を据えた。
金具の内側で青い光が一度走った。
鐘の舌が木を押し、かすかに硬い音を立てる。鳴り響くほどではない。リゼッタは小屋の梁へ伸ばしていた手を引っ込めた。ユーノの鏡板には、銅帯から吊り金具へ入った短い線が残った。
「誰か、鳴らないようにしたんだね」
セレーネがくさびを見る。古い設備を黙らせるためか、最近の音を聞いて困ったからか。リュオも理由は知らなかった。ただ、鐘が故障したまま放置されていたという話は、これで違う。光は山から小屋まで届き、舌を動かした。
森守がくさびの形を写す間、ペペは小屋の外で泥のついた靴を脱いだ。片方の踵には、点検溝の蓋石から剥がれた苔がまだ貼りついている。尽は小屋の柱を見た。刻字の〈西受一〉は鐘のすぐ下にもあり、そのさらに下に、擦れて読めない一行が続いていた。ユーノが紙を当てて鉛筆を走らせると、最後の二字だけが浮いた。
〈第二〉。
ペペは靴を履き直し、森の西を見た。鐘は一つきりだ。リュオは地図を広げ直したが、この先にもう一つ小屋があるという記録は載っていなかった。




