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第二百話 東を向く欠片

調査官は、谷の図を机へ置くより先に、角獣の脚の傷についてナディアに尋ねた。森守が残した観察記録には、救出の三日後、泉のそばで同じ若い角獣を見たとある。後ろ脚をかばっていたが、自分で水を飲み、森へ戻った。その後の足跡も二度確認されている。


「生きているのは確かです」


 ナディアは記録に署名した者の名を示した。調査官は頷き、次にカルヴォスが網の中の獣を見て引き返した供述を読んだ。本人をこの場へ連れて来る話にはならない。王宮へは身柄の保全と追加の聴取を求め、精霊国側では森の無許可捕獲と放置を別に調べる。ハルムが網を作り、鍵を持ち続けた責任も消えない。


 尽たちは立会いの席にいた。調査官が彼らへ尋ねたのは、網を見つけた時の足場と、角獣を逃がした向きだけだった。尽は石の位置を図に書き足す。ペペが「靴を片方落とした場所も」と言い、リゼッタに肘でつつかれた。だが、靴が引っかかった根は谷道の目印になった。ナディアは小さな丸で図へ残した。


 聴取を終えた午後、フィオナは温室地下の古い隔離区画へ降りた。尽たちも許可札を持ち、柵の手前までついて行く。前に四一七二の複写が挟まっていた札は新しく封じ直され、棚の上には保存板へ収めた紙がある。


「返送先に、どうしてここを書いたの」


 フィオナは前日、ハルムにも同じことを尋ねていた。記録官が取った供述には、地下の正式名称をカルヴォスに教えたとある。商会が受領控えを送り返すなら自分が地上の管理室で受け取り、持ち出すつもりだったという。実際には受領印を押さず、控えも届かなかった。水路へ通した四一七二の複写は、紙を外へ引けるか試した一枚だった。


「ここの水路まで使ったのに、紙は柵で止まったのね」


 ミレイアは棚の奥から乾いた鉢を二つ下ろした。ハルムの話は水路の細い糸と合うが、カルヴォスがどこまで手順を知っていたかは、まだ王宮への照会に残る。調査官が引き取った記録の中には、その未回答の欄もあった。


 フィオナは保存板を戻すと、別の保管票を出した。風見塔で尽が見つけ、王子との争いの朝に鞄へしまった風晶片のものだ。逃亡中はセレーネが白布に包んで守り、今は学院で封じてある。


「これを調べに来たはずでしょう」


 尽は票を受け取った。森の網から始まった調査に追われ、欠片そのものを最後に見たのはずいぶん前だ。フィオナは試験室の予約欄を開き、保管担当とミレイアの立会いが取れる日を指で押さえた。


 夕方、四人は温室脇の小さな試験室へ移った。風晶片は透明な容器の中に置かれ、黒針とも古い防護材とも離してある。ユーノは空の鏡板を立て、ペペは窓を閉めた。外から吹き込む風で片が転がらないようにするためだ。


 尽が指先に細い風を集める。欠片は一度だけ青く光り、容器の東側へ寄った。風を止めても、すぐには中央へ戻らない。今度は窓際と扉際で同じ強さの風を送った。どちらでも東へ動く。


「風向きじゃないのか」


 ペペが容器の縁を覗く。ユーノは二回の位置を鏡板へ写し、試験室の壁に刻まれた方位を確認した。尽は胸元の指輪に触れた。熱はない。風晶片だけが、東側の硝子に細い青線を残していた。


 ミレイアは三度目を止めた。容器の向きを変え、翌朝もう一度測る。尽は試験票に自分の風の強さを書き、東の欄は空けたまま、ペンをフィオナへ返した。


   *


 朝の試験室では、ペペが卓の脚に紙を三枚重ねていた。昨日、風晶片が東へ寄ったのは床が傾いているからだと言い出したのは彼だ。水を張った浅い皿を卓に置くと、皿の縁までの高さが片側だけわずかに違った。


「ほらな」


「昨日は気づかなかったわね」


 リゼッタに言われ、ペペは紙をもう一枚足した。水平になった卓を保管担当が確かめ、風晶片の容器を置く。容器の下には方位を刻んだ木の輪がある。フィオナは前夜の青線を写してから、輪ごと容器を半回転させた。


 尽が同じ幅の風を送る。欠片は容器の中で一度揺れ、昨日とは反対側の硝子へ寄った。窓の下の方位盤では、やはり東だ。次は容器を四分の一だけ回す。風を止めて待つ間、ペペの紙の一枚が卓の脚から抜けかけたので、リゼッタが靴先で押し戻した。


「動いた」


 ユーノは鏡板に映した欠片の端を指す。二度目も東。普通の風晶を入れた別の容器は、風の当たった側から離れたところで止まった。保管担当は、欠片の形が片寄っている可能性を残しつつ、容器だけの向きでは説明できないと記録した。


 午前の授業が終わると、ミレイアは試験を中庭へ移した。校舎の西側で一回、東側の薬草棚の脇で一回。尽は風の幅を揃えるため、木枠の隙間からだけ風を通した。ユーノが鏡板へ線を引き、フィオナは時刻と、二つの太陽が雲に隠れているかを書き留める。


 どちらの場所でも欠片は東へ寄った。ただし東側では、青線の端が少し北へ傾いた。紙へ描けば指一本ほどの差だが、木枠を置き直した時にも同じ差が出る。尽は図の線を一本にまとめかけ、二本とも残した。


「向こうに何かあるの?」


 ペペが薬草棚の先を覗く。見えるのは木の幹と、その間を行く学生の白い帽子だけだった。セレーネは東の森へ続く道を知っているが、線を伸ばした先に何があるか、この距離では選べないと言う。欠片自体が一定の向きを覚えている可能性もあった。


 午後、フィオナは試験票を王家の記録庫へ持ち込んだ。古い風晶片の比較品が、そこに一つ保存されている。王子との争いの直後、尽がエルシリンへ来た時に照合を頼み、事件の証拠保全が優先されて先送りになっていた品だ。


 記録庫の番人は、比較品の封を開ける許可をその場では出さなかった。先に尽の欠片の大きさと、今日の二本の青線を写し取る。箱の持出しも認めない。明日の午後、セレーネと学院の保管担当が立ち会うなら、同じ室内で二つを並べて観察できるという。


 フィオナが戻った時、尽はまだ中庭にいた。東側の測定で使った木枠をペペと畳んでいる。セレーネが記録庫の許可札を渡した。


「明日、見に行ける」


 尽は札の裏を確かめた。比較は記録庫の中だけ。二つの欠片を触れ合わせないこと。彼は頷き、木枠のねじを締めた。ペペが横から覗いて、札より先に、ねじの一本が地面へ転がったのを見つけた。

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