第百九十九話 四目の線を渡した者
保管室の窓辺に、濡れた外套が六枚掛かった。ペペのだけ裾から水が落ち、床に置かれた桶へ時々、ぽたんと音を立てる。保存担当は手を洗ってから、水車小屋で封じた箱を開いた。
銅板を灯に傾けると、浅い線が左側に二組、中央寄りに深い線が一組見える。ナディアはハルムを呼ぶ前に、図と板を別の卓へ置いた。まず聞くのは、取り付けた日に何をしたかだ。
「糸を二度引いた。谷の岩まで張れたか確かめるために」
ハルムは短い指を二本立てた。一度目は弱く、二度目は強く引いたという。細い腕が戻らず、ばねを直してから板の右側へ腕を寄せた。その時の線なら、左端にまとまって残るはずだと話す。
ナディアは保存担当を見る。彼は左端の二組を指し、腕を寄せ直した際についたような擦れも示した。ハルムが取り付け時に引いた回数と場所は、板に残るものと合っていた。中央の深い線については、ハルムは首を振る。
「それは見ていません。俺がいた晩は、何もかからなかった」
保存担当が次に青い繊維を見せると、ハルムは思い出すまで少しかかった。銅板の下の木が痩せ、ねじが空回りしたので、排水作業票の切れ端を挟んだという。紙を板の上から当てて写したことはない、と重ねて言った。
「作業票なら残ってる」
フィオナが書棚から綴りを運んで来た。綴じ糸に引っ掛けて頁が一枚めくれず、ペペが手を貸そうとして、濡れた袖を見て引っ込める。フィオナは指先で糸を外した。ハルムの名がある排水票の余白には、小さな欠けがあった。青い紙の質は似ているが、挟まっていたのは繊維一本だ。切れ目を合わせることはできない。
次の頁に、角獣が谷で見つかった日の作業票がある。午前は温室裏の排水溝、午後は七番弁の部品受け取り。受領欄には学院の倉庫係の印が押されていた。時刻は書かれていない。
「昼から夕方までは?」
「倉庫から戻って、弁を付けた」
ハルムはそう答えたが、作業の終了印は翌朝になっていた。ミレイアは七番弁を交換した後の水の流れを覚えている。交換の日にハルムが温室へ戻ったかは、覚えていなかった。
尽は水車小屋までの道を思い浮かべた。倉庫から取水路の入口へ向かい、十四番の鍵で下の扉を開ける。戻って弁を付ける時間は、まだ残る。ナディアはハルムに向き直った。
「鍵はあの日、あなたが持っていた」
「持っていた。でも小屋へは行ってない」
彼が言ったのはそこまでだった。ナディアも、作業票の空白を犯行時刻に置き換えなかった。
ユーノは王宮から届いていたカルヴォスの帳面の写しを広げた。角獣が網に触れた時の欄には、針の変位が〈四目〉とある。保存担当は銅板の基準線から中央の深い線までを透明な目盛板で測った。四目。右へ戻る細い傷もあり、腕が一度大きく振れた形になっている。
ペペが桶の音に振り向き、それから帳面を見た。
「あいつは、板を見たのか」
「本人か、数字を渡した誰かがね」
ナディアは写しを畳まないまま言う。網に触れた時の揺れかどうか、板には日付がない。ただ、カルヴォスの帳面の数字と、取り付け後に残った深い線の幅は一致する。ハルムが測定紙を送っていないというなら、数字の出所を改めて聞かなければならなかった。
フィオナが新しい照会文を起こした。四目の測り方、紙を受け取った日、渡した相手の名。ナディアは水車小屋の板と作業票の写しを添え、王宮の監査官へ送る封に入れた。
ペペは桶を外へ運ぼうとして、外套の裾がまだそこに垂れているのに気づいた。桶を戻すと、また一滴落ちた。尽は窓の下へ寄せてあった椅子を引き、乾いた場所に封筒を置いた。
*
王宮の監査官が封を切った時、机にはカルヴォスの帳面が開いていた。〈四目〉の字の横へ、エルシリンから届いた銅板の拓き写しを置く。浅い試し引きが二組、その右に深い線が一組。測った者の署名も、封の中にあった。
監査官はもう一通、先に取り寄せていた宿の厩帳を開いた。谷の罠が見つかった日の朝、カルヴォスの黒馬は日の出前に出され、昼過ぎに戻っている。行き先欄は空白だ。馬の前脚に巻く白い布を、宿の者が洗濯に出した記録まで残っていた。
「ハルムから紙を受け取った日を、もう一度」
小部屋でカルヴォスに尋ねる。彼は初め、前に答えた日付を繰り返した。監査官は拓き写しを見せ、次に厩帳を向ける。
「測定紙は出てこない。あなたの馬は、この朝どこへ行った」
カルヴォスは帳面に目を落とした。爪で〈四目〉の端を押さえ、しばらく動かない。
「水車小屋です」
ハルムは前夜に学院へ戻ったと聞いていた。取水路の十四番鍵は彼が持っていたが、小屋の表戸にはその鍵が要らない。カルヴォスは馬を石垣の裏へ繋ぎ、軸箱の床板を持ち上げたという。細い腕の先に新しい線があり、持っていた目盛りで幅を読んだ。
「紙は?」
「私の手帳に書きました。ハルムからは何も受け取っていません」
監査官の筆が一度止まる。前の供述は虚偽だった。カルヴォスは指を離し、帳面を押し戻した。
「あの朝、谷にも行きました」
小屋から谷へ続く道には、馬で通れない狭いところがある。彼は手綱を木に結び、残りを歩いた。白い網の中で若い角獣が横たわっていた。近寄ると獣が脚を動かし、糸が締まった。カルヴォスは中央の黒針を抜く道具を持っていなかった、と話した。
「網を切る刃物は」
「ありました」
監査官はそれ以上、言葉を足さなかった。カルヴォスは刃物を使わず、馬のところへ戻った。ハルムが後で回収すると考えたと言うが、その日の回収を命じた記録はない。尽たちが角獣を見つけるまで、網は谷に残った。
カルヴォスが帳面の二行目に書いた〈返りなし〉についても聞く。彼は角獣を救い出した後の報告で、網が焼き切られ、針の揺れが風の中で消えたと知った。水車小屋で二度目を測った値ではなかった。監査官はその区別を、帳面の写しの余白へ記した。
聴取が終わると、カルヴォスは署名をした。監査官は署名の下に、角獣を見た時の様子を本人の言葉で書き足させる。ハルムの測定紙という項目には、該当する品がないことも明記した。
返書がエルシリンへ着いたのは三日後だった。フィオナがナディアへ渡し、ナディアはまず銅板を測った保存担当に読ませた。カルヴォスは板の線を自分で見たと認めたが、谷へ行った時刻と、獣が網にかかった時刻はなお別だ。保存担当は刻み傷だけからそれを決められないと言った。
尽は返書の中の一文を読み直した。角獣の脚が動いて、糸が締まった。谷で自分たちが見た時と同じだった。横にいたリゼッタが紙を押さえる。
「あの子、逃げられたよね」
「うん。走っていった」
尽が答えると、ペペは窓を少し開けた。温室の方から、雨上がりの土の匂いが入る。フィオナは返書を畳み、精霊国の調査官へ渡す封筒を取った。今度は、網を見て引き返した朝のことを、こちらの法で調べる番だった。




