第百九十八話 帰路の印と水車の板
国境の橋を戻る朝、門番は六人の札を一枚ずつ見た。尽たち四人の通行証には、往路の印の隣へ帰路の印が押される。セレーネとナディアはそれぞれの立会札を返してもらった。期限内の一往復は、これで終わりだ。
橋を渡りきると、ペペが先に馬車の窓を開けた。森の湿った匂いが入り、荷物の上に置いた小太鼓のばちが転がる。リゼッタが拾って差し出した。
「今度は数に入れた?」
「入れた。一本だけだけど」
数日後、エルシリン精霊魔法学院の門でフィオナが待っていた。ミレイアから預かった温室の当番表も持っている。尽が受け取ろうとすると、フィオナは「それはあと」と言い、森守の保管室へ案内した。
谷で押収した黒針は、網から外した時の短い糸と一緒に封じられていた。保存担当が封を読み上げ、ナディアの署名を確かめる。尽たちは卓の反対側に立った。工房の図を持って来たユーノだけが、薄い板を一枚、保存担当へ渡す。
細い挟み具で針を起こすと、先端近くの曲がりが灯を受けた。網を焼き切った時に欠けた部分は黒く荒れている。保存担当は針を図の上へ置かず、透明な目盛板を間に立てて二つの位置を写した。曲がり始めるところと、柄元の浅い傷。どちらも工房の記録に合う。
「あの箱に戻されていた針と、同じだと思いますか」
尽が聞く。保存担当は目盛板を外し、破損した先端を示した。そこは元の長さを測れない。傷と曲がりが重なること、工房ではこの形の修理が一本だったことを記録する。測れなかった部分も含め、結果を王国の監査官へ送るという。
ペペは空の木箱の絵と、目の前の針を交互に見た。水漏れの夜に工具袋へ入れられた細い物が、森では角獣を捕らえる網の中心に結ばれた。彼は指を伸ばしかけ、手を引く。
その午後、ナディアはハルムを呼んだ。押収した針は再び封じ、彼の前へは出さない。代わりに水車小屋と谷の図を広げる。
「黒針は誰から受け取った?」
「六号箱が届いた日に、カルヴォスから。布で巻いてあった」
カルヴォスが水車小屋で手渡したという部分は、王宮の供述と合う。ナディアは続けて、角獣が網に触れた時の数値を尋ねた。
「俺は読んでいません」
ハルムは図の水車小屋を指した。白糸の端に薄い記録板を取り付け、揺れれば針跡が残るようにしたという。網を張ってから一晩は小屋にいたが、何もかからなかった。その後は学院の排水仕事へ戻り、板を取りに行っていない。
「カルヴォスは、あなたが最初の値を紙に書いて送ったと話しました」
「紙なんか送ってない。板は小屋に置いたままです」
ナディアは言い争わず、板の大きさと留めた場所を描かせた。捕獲の日にハルムがどこで働いていたかも、学院の作業票で確かめる。彼の話だけなら、水車小屋へ戻らなかったことまでは証明できない。
ミレイアが遅れて部屋へ来た。ハルムが戻った頃の排水仕事は覚えているが、谷で角獣が網に触れた時刻まで彼を見張ってはいないと言う。ナディアは頷き、今度は水車小屋の図へ、記録板を留めたという場所を赤く塗った。
「ここは、前に開けたか」
以前、水車小屋を調べた森守は首を振る。古い水車の軸箱の裏、手を入れるには板を一枚外す場所だった。尽は窓の外を見た。森では雨が降り始めている。水車小屋へ行くなら、今夜のうちに道具を揃えなければならなかった。
*
翌朝も雨はやまなかった。森守の倉庫で、ナディアは小さな木槌とねじ回しを布に包み、空の証拠箱を馬車へ積んだ。ペペが油紙を一束抱えて来る。
「板より先に、俺たちが水を吸いそうだな」
「油紙は板に使うの」
リゼッタに一本抜かれ、ペペは残りを外套の内側へしまった。尽は笑ったが、水車小屋へ着く頃にはその外套の肩も濡れていた。
森守が二人、入口と水路側に分かれる。ナディアは以前の捜索図を開き、当時外した水門の格子と、白糸が見つかった場所を確かめた。格子には森守の新しい封が残っている。そこから先は触らず、古い水車の軸箱へ回った。
車輪は止まったままだ。軸箱の上から雨がぽつぽつ落ち、床板に黒い点を作っている。ハルムの描いた図では、記録板は軸箱の裏側、壁との狭い隙間にあった。ペペが膝をついて覗き込む。
「板はある。でも、このままじゃ手が届かない」
ナディアは外す板の両端に印を付け、釘の位置を保存担当に描かせた。釘を抜く間、尽が風で雨を払おうとすると、ユーノが首を振る。
「糸まで動く。屋根の穴だけ塞ごう」
尽は風を収め、持って来た布を梁へ渡した。下にいたリゼッタが端を結ぶ。雨粒が箱へ落ちなくなってから、森守が床板を持ち上げた。
軸箱の裏に、掌より少し長い銅板があった。片端のねじで木に留められ、もう片端には針ほど細い腕が乗っている。腕から伸びる白糸は途中で切れ、壁の穴へ垂れていた。谷の網から水路を通じて、ここまで糸を張っていたというハルムの説明に、形は合う。
保存担当が灯を近づける。銅板には短い線が何本も刻まれていた。左端の浅い線から、中央の深い線へ。そこからまた浅い線が続く。ペペは見やすい角度を探して身を寄せたが、板には触れなかった。
「これが角獣の時の跡?」
「まだ分からない」
ナディアは板を照らしたまま答えた。いつ付いた線か、ここでは決められない。雨で軸が揺れたかもしれず、網を張る際にハルムが試した跡も混じる。保存担当は線の並びと糸の切れ端を写し、板を留めたまま記録した。
ユーノが銅板の下を指す。留めねじの頭と木の間に、青い紙の細い繊維が挟まっていた。保存担当は拡大鏡で見て、一本だけ細い挟み具に取った。残りはそのままにする。
「紙を当てて写したのかな」
尽が言うと、ナディアはハルムの図を見直した。彼は板を留める時に紙を使ったとは描いていない。ただ、青い繊維が最初からねじに付いていた可能性もある。紙を当てたとしても、誰がいつ来たかは分からなかった。
水路側の森守が呼んだ。壁の穴の向こう、白糸の通る溝に木の小片が詰まっている。拾い上げると、片面に新しい刃の跡があった。前の捜索では溝の手前の糸だけを採っていた。ナディアは小片も包ませたが、これも誰の仕事かは現物だけでは言えない。
板を外す前に、保存担当がねじと腕の位置をもう一度測った。リゼッタは雨の掛からない卓を作り、ペペの油紙をその上へ広げる。森守がねじを緩めると、腕がほんの少し跳ねた。尽は思わず身を引く。
「まだ動くんだ」
「腕を戻すばねが、まだ生きてたんだろうね」
ユーノは腕の止まった位置を記録に足した。板は油紙に置かれ、糸と一緒に箱へ封じられる。線の数を数えるのは保管室で、ハルムの試し引きの記録を調べてからにしようと決まった。
帰り支度の途中、ナディアは水車小屋の戸に残る古い鍵穴を見た。十四番の鍵はすでに返されている。誰が使ったかを鍵穴から聞くことはできないが、鍵の貸出帳なら日付が残る。彼女は森守に、捕獲の前後の出入りと、学院の排水作業票を並べて持って来るよう頼んだ。
馬車へ戻ると、ペペが油紙の残りを数えていた。一枚足りない、と眉を寄せる。リゼッタが彼の背中を指した。外套に張り付いた一枚を剥がすと、ペペはそれで濡れた証拠箱を包み直した。
尽は箱の封に雨が染みないのを見届けた。銅板の線は残っていた。カルヴォスが言った測定紙は、まだ見つかっていない。




