第二十話 息を吸っても、魔力は増えない
地図の次は、魔法だった。
尽は、ようやく来たと思った。
剣を振るわけではない。
火球を撃つわけでもない。
それでも、工房の魔法器具を理解するには、自分で魔力を感じられなければならない。
今まで尽が扱った力石は、すべて蓄えられた力を使っていた。
本人は回路を組み、部品を替え、停止片を抜いただけ。
力そのものを出してはいない。
薯片で崖を削った一回は、魔法を使えたとは言えなかった。
選んだだけ。
出力も停止も制御できず、六時間動けなくなった。
あれを技術と呼べば、崖が怒る。
教えるのはフィオだった。
刻紋工は、細い魔力を一定に流せなければ線を彫れない。大きな力より、小さな力を切らさず保つ方が重要らしい。
場所は工房の赤導光室。
天井の鏡が外の赤光を弱めて導く。
床には碧石の細い輪。
どちらか一方が強くなり過ぎないよう、光を混ぜる部屋だった。
尽は椅子へ座る。
左膝を伸ばす。
机の上に、透明な練習石。
魔力が入れば、内部に白い曇りが出る。
フィオは両手を石の左右へ置いた。
呼吸。
吸う。
止めない。
吐く。
肩を上げない。
赤光が羽根の縁へ当たる。
白い粒が、腕から指へ流れたように見えた。
練習石の中心が曇る。
フィオが手を離す。
曇りは消えた。
尽も真似する。
息を吸う。
吐く。
石へ両手。
何も起きない。
もう一度。
深く吸う。
胸いっぱい。
吐く。
何も起きない。
三回目は、息を止めて腹へ力を入れた。
顔が赤くなった。
石は透明なまま。
フィオが背中を叩き、呼吸を戻させる。
「ただの深呼吸やん」
その通りだった。
呼吸法を真似れば魔力が出るなら、坂道を走った人は全員魔法使いになる。
フィオは尽の手首へ、細い検流紐を巻いた。
工房で導路の向きを見る道具だ。赤い小珠と碧い小珠が一本ずつ付いている。
フィオが魔力を流す。
赤珠が少し動く。
碧珠も遅れて動く。
一回見ただけでは、フィオにだけ起きる現象か分からない。
ティムとバルクも呼ばれた。
同じ椅子。
同じ練習石。
同じ砂時計。
食事から経った時間も記録する。
ティムは赤光を浴びる前から、赤珠が一目盛り動いた。手を石へ置くと、短く強い曇り。そのあと急に薄くなる。
バルクは碧珠が先に動く。曇りは弱いが、手を離しても長く残る。
フィオは二珠が小さく揃い、細い曇りを一定に保つ。
種族の違い。
訓練歴の違い。
仕事の違い。
食事や睡眠の違い。
どれが原因か、この人数では分からない。
赤光を一定時間当てた後も測る。
ティムは赤珠が少し増える。
バルクはほとんど変化なし。
フィオは出力より、減った魔力が戻るまでの時間が短くなった。
ただしフィオは訓練前に甘い実を食べ、ティムは食事直後、バルクは勤務明けだった。
条件が揃っていない。
フィオは〈赤光で回復した〉と断定せず、次回は食事と休息を揃える三角印を付ける。
工房で食光が知られていても、目の前の変化を何でも食光の証拠にしてよいわけではない。
尽はその態度を、魔力より先に真似することにした。
尽の手首。
何も動かない。
旧銀戒へ紐を近づける。
二珠が反対方向へ跳ねた。
フィオはすぐ離す。
戒指は別。
本人の魔力測定へ混ぜない。
尽は赤い古紐ごと戒指を上着の外へ出し、机から離れた木台へ置こうとした。
手が止まる。
神社の老人と、分解しない約束をした品。
身体から外したくない。
フィオは無理に求めなかった。
戒指へ灰色の遮蔽布を巻き、胸元へ残す。完全に影響を消せる保証はないため、測定条件に〈戒指あり、遮蔽〉と書く。
測れないものを、ないことにしない。
次は、身体のどこに変化が出るかを探す。
掌の温度。
指先の痺れ。
呼吸。
脈。
赤光を当てる前。
当てた後。
尽は、地球の理科実験のように数値を取りたかった。
温度札は目盛りが粗い。
脈は自分で数える。
この世界の時間単位を、まだ秒へ換算できない。
ティムが砂時計を持ってくる。
細砂が上から下へ落ちる間、脈を数える。
赤光前。
十八。
赤光後。
十九。
差は一。
魔力か。
緊張か。
椅子へ座り直したせいか。
分からない。
三回測る。
十八。
十八。
十九。
赤光なしでも十九が出た。
魔力の証拠にはならない。
フィオは笑わず、記録へ丸を付けた。
変化なしと分かったことも結果だった。
次に、薄い赤布を尽の前腕へ掛ける。
もう一方は灰布で覆う。
左右の感覚を比べる。
赤側が少し温かい。
光を受けたから当然かもしれない。
検流紐は動かない。
碧光へ替える。
左手の古傷が冷える。
これも魔力ではなく、部屋の温度差かもしれない。
工房には、〈食光〉という言葉があった。
フィオが胸、光、口ではなく皮膚を指す。
赤極の術者は、赤い光と周囲の魔力を長く浴び、呼吸を整えることで、身体へ少しずつ取り込む。
食事をしなくてよい、という意味ではない。
むしろ空腹や脱水の状態では、体調変化と魔力反応を区別できないため訓練を止める。
メルダが食事を抜くなと書いた理由の一つだった。
尽は、自分の腕を見る。
光を受ければ皮膚が熱を持つ。
地球でも、日光は身体へ作用する。
だからといって、人間が植物のように光だけで生きられるわけではない。
この世界では、光に混じる魔力を扱える者がいる。
それも食物、水、睡眠の代わりではなく、別の入力らしい。
尽は単語帳へ書く。
〈光=食事ではない〉
〈呼吸=魔力ではない〉
〈光+身体+方法?〉
疑問符が残った。
最初の訓練は、石を曇らせることを諦めた。
代わりに、フィオが流した魔力を止める合図を出す。
透明石へフィオがごく細く力を入れる。
尽は石の曇りを見る。
増える。
一定。
減る。
見た目だけでは遅い。
検流紐の珠。
発光紋の温度。
返流石の色。
三つを同時に見る。
赤珠が二目盛り。
温度札は一線。
返流石に青点。
尽は停止札を上げる。
フィオが流れを止める。
一回目は早過ぎた。
二回目は、返流石の青点を見落として遅れた。
三回目。
三条件が揃ったところで停止。
石は壊れない。
曇りも許容線内。
自分で魔力を出せなくても、流れを観察し、危険前に止めることはできる。
グランドーガは、それを最初の合格にした。
尽は不満だった。
魔法の授業へ来て、覚えたのが停止札を上げることだけ。
フィオは自分の刻紋針を見せた。
針先ほどの線を一本引くため、力を出す訓練より先に、過剰を感じて止める訓練を何百回もしたという。
大きな魔力は、止められなければ事故になる。
薯片の一撃を思えば、尽は反論できない。
訓練後、食堂で粥と焼いた根菜を食べる。
根菜は丸く、土の匂いがした。
尽は少し期待して齧った。
甘い。
薩摩芋に近いが、繊維が多い。
薯片の材料になる馬鈴薯ではなかった。
戒指も反応しない。
ティムが塩を掛ける。
フィオは香草油。
バルクは焦げるまで焼く。
四人とも食べ方が違う。
尽は、光を食べる訓練をした直後に二杯目の粥をよそった。
食光の道は遠い。
少なくとも、夕食を減らせるほど近くはなかった。
食堂を出る前、フィオは赤導光の下で羽根を乾かした。
魔力が戻るからだと言いながら、焼いた実と塩水もきちんと取る。
バルクは碧い廊下の方が落ち着くと言い、ティムは光より寝台を選んだ。
〈食光〉は、全員が同じ光を同じ方法で食べる技ではないらしい。
身体、光域、訓練、休息。
条件ごとに違う。
尽の欄だけは、まだ〈未検出〉のままだった。
食後、メルダが検流記録を見る。
本人魔力、未検出。
戒指反応、遮蔽下でも測定へ影響の可能性。
赤碧曝露による明確な変化なし。
訓練継続可。
ただし一回の時間を延ばさない。
尽は〈未検出〉の文字を読めた。
ない、と書かれてはいない。
今の方法では見つからなかった。
その違いを、少し嬉しいと思った。
共同室へ戻ると、ティムが氷風城の小地図を寝台へ置いていた。
赤縁と緑縁には、大きな文字。
炉風札には三枚羽根。
階段には上下の層番号。
最後に、工房の位置へ太い槌印。
子供向けより分かりやすい。
尽は礼を言い、正しい向きへ回した。
槌印は下。
赤縁は左。
自信があった。
ティムが無言で地図を百八十度回す。
尽は遮光布を閉じた。
魔力より先に、地図を覚える必要があった。




