第百九十六話 左曲がりの証言
翌朝、工房の戸を叩いても返事がなかった。ペペがもう一度叩こうとすると、中から金槌の音が三つ続き、ようやく掛け金が外れた。
「火を止めるまで待ってくれよ」
煤のついた親方は、扉の外に監査官とレオハルトが立っているのを見て、金槌を背中へ隠した。エウリスが古い納品書を示す。学院の第七結晶灯で使った黒針を、ここで一度鍛え直している。
尽たちは監査官の同行者として中へ入った。正式な聴取に伴う外出先は工房までと決められ、通行証にも追記されている。ナディアは入口に近い作業台を選び、精霊国の寸法図を布の上へ広げた。
親方は図を見る前に、棚から真鍮の薄板を取った。針を寝かせるために削った溝がある。先端から指の爪ほど手前で、溝はわずかに左へ逃げていた。
「焼き直したら、ここが戻らなくなった。無理に直すと折れる。研究会にはそのまま渡した」
試験簿の器具図にも、同じ位置で曲がった線がある。親方は自分の帳面を開き、修理した年と、曲がりを残した理由が書かれた頁を見せた。北門で八本が受領されたより後、第七灯の試験より前の日付だった。注文主は王立術具研究会。納品を受けた者の署名は、トビアス・レンのものだった。
「ほかにも、こんな針を直しましたか」
ユーノが聞く。親方は首を振った。この工房で左へ曲がったまま納めた黒針は一本だけだという。ただし、ほかの工房まで知っているわけではない。
ナディアが谷の針の寸法図を真鍮の溝へ合わせた。曲がり始める位置は近い。親方は手を出さず、図の線を目で追う。柄元に刻まれた浅い傷も、彼の帳面に描かれた位置と重なった。
「この傷は、私が押さえ金を当てた時につけた」
親方の指が止まる。谷の図には、網から外した際に欠けた先端も記されている。見比べるほど似ていたが、紙の上では傷の深さまで測れない。監査官は真鍮板と帳面の頁を封じ、谷の現物との照合を精霊国へ申し入れることにした。
「研究会から、修理後に問い合わせは?」
「なかった。金は半月遅れで払ってもらったがね」
親方はレオハルトを見て言った。王子は支払票の写しを確かめ、遅延分を今さら払うと言いかける。親方が「もう受け取った」と遮った。奥の炉で炭が崩れ、薄い音がした。
工房を出る時、監査官は王宮へ送る照会状を一通増やした。カルヴォスが谷で使った針の入手先を、器具番号と修理の特徴を示して再聴取するためだ。本人が学院の針を持ち出したという記録は、まだない。
皆が馬車へ向かう中、レオハルトが尽を呼び止めた。工房の軒から落ちた煤が、王子の外套の肩についている。彼は払わずに言った。
「あの日、私が先に鎖を放った。君たちを追わせた時も、私は自分の膝のことしか考えていなかった」
尽は王子の顔を見た。実習室で聞きたかった言葉が、この鍛冶場の前でようやく出てくるとは思わなかった。
「すまなかった」
しばらくして、尽は答えた。
「謝罪は聞きました。ペペは荷車で眠れませんでした。僕らが森へ着くまで、ずっと」
ペペが馬車の脇から顔を上げた。口を挟まず、背負い鞄の肩紐を握り直す。レオハルトは四人へ向けて頭を下げた。リゼッタとユーノは、先に馬車へ乗らなかった。
「学院でも、同じことを話してください」
尽が言うと、王子は頷いた。監査官に呼ばれて歩きだす前、外套の煤を指で払う。黒い粉は一度広がり、掌の側に残った。
*
始業の鐘が鳴る前、実習棟の広間は学生の声でいっぱいだった。レオハルトが教壇の前に立つと、話し声が端から止まっていく。尽たちは後ろの扉のそばにいた。そこなら、途中で出たくなっても人を押しのけずに済む。
王子は手に持っていた紙を折り、教壇へ置いた。
「風間尽たち四人を、私が研究会の部屋へ呼んだ。証拠の提出先をめぐって争いになり、私が先に鎖の術式を放った。彼らが防いだ鎖で第七灯が割れた。その後、私が扉と窓を塞いだ」
前列の学生が振り向く。リゼッタは腕を組んだまま、視線を逸らさなかった。
「尽の風で私は転んだ。膝を打ち、唇を切った。追跡を求める申立てには、私が先に術式を使ったことを書かなかった。四人を襲撃者として扱わせたのは、私の申立てだ」
「じゃあ、あの貼り紙は」
誰かが言った。王子は声のした方を向いた。
「間違っていた。追跡札は停止され、掲示も外された。私がここで話すのが遅すぎたことも、分かっている」
広間は静かだった。ペペの前に立つ学生が鞄を足元へ置き、床に落ちた留め具を拾う。その音が聞こえた。王子は四人の方へ頭を下げ、教壇から降りた。拍手はなかった。
授業へ流れる人の間を抜ける時、尽は後ろから名前を呼ばれた。昔、同じ実習班だった学生が、何か言いかけて「またな」とだけ言う。尽も頷いた。今はそれでよかった。
広間を出たところで、エウリスがトビアス・レンを連れて待っていた。昨日の工房で見つかった署名と、空の針箱について話を聞くためだ。トビアスは備品係の上着を着ており、袖口に新しい糸のほつれがある。
「第七灯の試験が終わってから、針を戻しましたか」
監査官が尋ねる。トビアスは頷いた。イルマから針を受け取り、曲がった先を上にして木箱の溝へ入れたという。横に寝かせると蓋の裏に当たるので、薄紙を一枚挟んだ。返却欄の印も自分で押した。監査官はその順序を繰り返させ、箱に紙が残っていないことは別に記した。
「それから、誰かが針を見たいと言いましたか」
トビアスはすぐには答えなかった。柱の脇に立つレオハルトを見て、次に監査官へ目を戻す。
「王宮の書記官が来ました。カルヴォスと名乗りました」
研究会の古い試験記録を照らしたいと言い、器具番号を告げた。トビアスが教授の承認を求めると、書記官は針を見ずに帰った。出入りの帳面へ名だけ残している。トビアスは当時、王宮から正式な照会が来るものと思い、その後は忘れていたという。
「殿下からの指示でしたか」
「私が頼んだことはない」
レオハルトが答えた。監査官はトビアスへ向き直り、訪問の際にカルヴォスが箱へ触れたかを確かめる。触れていない。トビアスは器具庫の入口で話し、鍵も出さなかった。証言から分かるのは、カルヴォスがその針の番号を知っていたことまでだ。
古い来訪帳が運ばれてくるまで、ペペは窓際で待った。朝の広間で王子が話したことを、もう誰かが廊下で言い直している。言葉は途中で変わるかもしれない。だが今度は、四人自身がここにいる。
トビアスが開いた頁には、カルヴォスの署名があった。監査官が日付を指でなぞる。北谷測量班の名で六号箱と保護材が持ち出される、十二日前だった。




