第百九十五話 鋲と曲がった針先
木箱を卓の中央へ移すと、封紙の端が少し浮いた。監査官は蓋を押さえたまま、エウリスに細い灯を借りた。光を横から当てる。表には器具庫の印があるが、紙の重なったところだけ、裏の紫色が透けていた。
「まだ触らないで」
ナディアがペペの手を止める。紙の繊維が一緒に剥がれれば、いつ重ねたものか調べにくくなる。ペペは両手を背中へ回した。
ユーノが鏡板で灯を受け、紫の線を壁へ映した。文字が逆さに伸びる。レオハルトが一歩近づき、「雷術」と読んだ。
「器具庫の札に、授業の名を書くか?」
エウリスは廊下へ出た。すぐに戻り、事務室に残っていた時間割変更の控えを一枚持ってくる。雷術実習を北棟から南棟へ移すという告知だった。同じ紫の刷り色。掲示の日付は三日前になっている。
「それをこちらへ」
監査官が言う。紙を並べても、すぐには結論が出なかった。告知は各棟に同じものが貼られている。木箱の封紙に使われたのが、同じ告知の切れ端かどうかは分からない。
リゼッタは掲示板を見に戻った。ペペもついていく。廊下には鐘に遅れた学生が数人残っていて、王子が部屋の中にいるのを見つけると、足を緩めた。ペペは「授業、始まってるよ」と声をかける。学生たちは一斉に走りだした。
掲示板には、同じ告知の上半分だけが鋲で留まっていた。下端は真っすぐ切られていない。角に小さな三角の破れがある。リゼッタは掲示板ごと持ち上げようとして、釘が深く打たれているのに気づいた。
「外せない」
後ろから来たレオハルトが、鋲を二本抜いた。紙を引きちぎらないよう、指で上端を支えている。廊下の向こうでは学生がもう一度立ち止まりかけたが、王子は見なかった。
監査官の前で、告知の下端と封紙の浮いた端を近づける。三角の破れが合った。紙の裏から透ける文字も、告知の下半分につながる。ユーノは重ねずに、間に薄い板を挟んで線を写した。
「この紙が刷られてから、ここで切った人がいる」
尽が言った。木箱が開けられたのもその時だと思いかけ、口を閉じる。古い封紙が先に切られ、後から誰かが破れを隠したのかもしれない。針がいつなくなったかは、この紙では決まらない。
監査官はその点を記録官に読み上げさせた。カルヴォスの書記官権限は、掲示の日付より前に止められている。本人は王宮の管理下にいるが、ほかの誰かへ頼んだ可能性まで消えるわけではない。ナディアは精霊国から持って来た谷の針の寸法表を閉じた。比べる順番は、まだ先だ。
「掲示板は誰が見ていたんですか」
セレーネが尋ねる。エウリスは当番表を取り寄せた。昼の見回りは教師、夜は実習棟の守衛。だが告知の下半分がなくなったと報告した者はいない。廊下には毎日、学生と教師が通る。
ペペが掲示板の鋲穴を見ていた。
「これ、下のほうだけ切ったんじゃない?」
上の二本は紙を留めたまま。切れ端を取るなら、板の前に立つ時間は短い。リゼッタは試しに、告知の下端へ指を当てた。すぐ横に実習棟の裏階段があり、そこからなら人の声を聞いて引き返せる。
尽は裏階段の扉を開けた。冷えた石段に、靴の泥が一筋だけ残っている。昨日の雨でついたものかもしれない。それでも、階段の下からは器具庫の扉が見えた。掲示板と木箱の間を行き来するには、近すぎるほどだった。
「この三晩の守衛に聞こう」
エウリスが言う。監査官は掲示板の紙と木箱を別々に封じ、両方へ同じ記録番号を振った。レオハルトは抜いた鋲を掌に載せたまま、しばらく動かなかった。
「これも要るか」
「置いてください」
監査官が小皿を差し出す。王子が鋲を落とすと、二つが皿の中で小さく跳ねた。
*
夕方の実習棟では、どの教室からも椅子を引く音がしていた。最後の授業が終わる。尽たちが裏階段へ向かうと、守衛は踊り場の窓を開け、溜まった熱を逃がしていた。
「この三晩、変わったことは?」
エウリスが聞く。守衛は夜間簿を開いたが、そこに答えはなかった。二日前の夕刻、巡回を始める前に、器具庫の担当者が糊の壺を持って階段を上がるのを見たという。胸に抱えていたのは細い木箱だった。
「あの人なら鍵を持っています。仕事だと思いました」
ナディアが時刻を尋ねる。守衛は窓の外の鐘楼を見た。夕食の鐘より少し前。見た場所と話したことを、夜間簿の空いた欄へ書き足してもらう。昨日の泥筋については、雨の日に何人も通ったので分からないと答えた。
器具庫の担当者は、片づけの途中で呼ばれた。小さな瓶を棚へ戻す手が、監査官の持っている封紙を見て止まる。
「貼りました。私です」
試験簿と木箱を出すよう頼まれ、三日前に箱を棚から下ろした。封紙の中央はついていたが、端が裂けて浮いていた。誰かに見つかる前に直そうと思い、翌夕、掲示板の下半分を切って裏から当てたという。箱は開けていない。
「なぜ報告しなかった」
「先月の棚卸しに、私が印を押しました。封を確かめたと書いてあります」
監査官は、破れを見つけた日と貼った日を分けて記録した。担当者は問いに答えるうち、糊の壺をどこへ置いたかまで話し始める。守衛が見たのは本人だった。だが、裂けた封紙の下で針がいつ消えたのか、本人にも分からない。
扉のそばで聞いていたレオハルトが口を開いた。
「私を恐れて隠したのか」
担当者は首を振らなかった。試験用の器具を王子の研究会へ渡した時も、返却を受けた時も、自分はまだこの仕事に就いていなかったと答える。責任を問われるのが怖くて、今度は自分の印のついた棚卸し票を隠した。レオハルトはそれ以上尋ねず、監査官へ「そのまま残してくれ」と言った。
ユーノは卓を借り、古い試験簿の器具図を開いた。第七灯へ近づけた黒針は、先端の少し手前で左へ曲がっている。脇には小さく、鍛え直した時に生じた曲がりだと書かれていた。記録者は当時の観察者の一人。これまで皆、灯の数値ばかり追っていて、この図を見落としていた。
「谷の針も、ここが曲がっています」
ナディアが持参した寸法図を横へ置く。ユーノは二枚に薄紙をかぶせ、曲がり始める位置を写した。長さは近い。先端の角度も重なる。ただ、谷の針は網から外す時に傷んでおり、欠けた部分を紙の上で補うことはしなかった。
「試験に使った針が森へ行った可能性はある」
エウリスが言った。監査官は頷いたが、同一の針と記すには谷の現物との照合が要る。鍛え直しを請け負った工房の帳面も調べることになった。似た曲がりの針がほかにあるなら、図だけでは絞れない。
尽は二枚の図の間に指を置いた。黒針の行方が分かれば、王子の部屋で求められた風晶片も、谷の網も、一つの道筋に並ぶかもしれない。だが、欠けた針先を都合よく描き足したら、あの朝と同じになる。自分たちに不利なところだけ消した王子の供述を、ずっと追いかけてきたのだ。
「工房には、明日行けますか」
セレーネが尋ねる。エウリスは場所を確かめるため、古い納品書を取りに立った。窓の外では、夕食の鐘が二度目を鳴らしている。ペペが尽の鞄から梨を一つ取り出し、柄のところに爪をかけた。
「半分、食べる?」
尽が頷くと、ペペは小さなナイフを探して自分の鞄をまさぐった。出てきたのは小太鼓のばちと、折れた定規だけだった。




