第百九十一話 受領印を押さなかった男
設備室の貸出簿には、〈南水路・予備〉の札を受け取った者の名が残っていた。ハルム・セイ。温室の排水管を直す臨時の仕事をしていたが、契約が終わった時、札だけ返していない。ミレイアは帳面を閉じ、見張りのいる小部屋へ入った。
「あなたの名ね」
若い男は頷いた。濡れた外套を脱がされ、巻き枠も刃も別の場所に封じられている。椅子に座ったまま、指で机の縁をこすっていた。
ナディアは運搬係の図を広げた。橋、水車小屋、石垣。灰色の外套と、顔へ巻いた布。
「六号箱を受け取ったのは、あなた?」
ハルムは図を見て、返事をしない。尽たちは立会いの席にいたが、ナディアは追い立てず、配達の時に運搬係が受領印を求めた話を続けた。ハルムの指が止まる。
「詰所で押すと、言った」
声が小さかった。フィオナは聞き取った言葉だけを書き、もう一度本人に確かめる。
「俺が言いました。あの人、ずっと待ってたのに」
受領印は届かず、運搬係の賃金から半日分が引かれた。ハルムはそれも知っていた。名前を書けば、六号箱を誰が持ったか残る。カルヴォスに印を押すなと言われた、と彼は話す。ナディアは命じた者の名を繰り返させ、記録官の前でも同じように答えさせた。
「カルヴォスは、その場にいましたか」
「黒馬を石垣の奥へ繋いでいた。箱を取る時は、俺に前へ出ろと」
ハルムは顔の布を自分で巻いたという。十四番の鍵も、石垣の裏でカルヴォスから受け取った。水車小屋の下へ白糸を通し、谷までの合図を試したあと、鍵は持ち続けた。谷の罠が見つかってから、資材庫の裏口へ戻した。
「罠を張ったのも?」
尽が訊く。ハルムは彼を見た。尽の指には、温室の土が爪の際にまだ残っていた。
「糸を張りました。中央の結び目に黒針を入れたのも俺です。切られたら、水車小屋へ知らせるつもりだった」
谷で若い角獣を捕らえたことは、ここで初めて口にする。ナディアが理由を問うと、ハルムは「反応を見る試験だと聞いた」と答えた。誰から何を命じられたかについては、カルヴォスの名を挙げるだけで、書面を持っていなかった。
フィオナはその供述と、押収した巻き枠の糸を別々に記録した。水車小屋の糸や谷の網と同じ術式かは、まだ照合が要る。
「温室の水路は?」
ミレイアの問いに、ハルムは椅子の脚を見た。元の排水管を直した時、奥の石を一つだけ戻さなかったという。細い糸と紙を通す幅を残した。商会の運搬依頼の複写を糸に結び、どこで止まるか試したことも認める。四一七二と印字された紙は、柵まで引き上げる前に水で重くなり、見失ったそうだ。
「あの根菜も、あなたが入れたの?」
「知らない。糸が水路で何かを拾うことはあった」
ミレイアはその答えを顔に出さず、根菜の保存記録を追加で持って来るようフィオナへ頼んだ。自分が見たものと、ハルムが知っていると言ったものを混ぜないためだった。
聴取が終わると、ハルムは尽へ訊いた。
「谷の角獣は、生きてるか」
「生きてる」
尽はそれだけ答えた。ハルムは両手を膝へ下ろす。ナディアは彼を森守に預け、カルヴォスの訂正書の空欄へ、ハルムの名と、まだ裏づけのない供述を添えて王宮へ送った。




