第百九十話 排水口にいた人
「引かれた」
ユーノが鏡板を離した。水は格子へ流れている。白糸も同じ方へ消えたが、沈む前に二本の先が一度揃って曲がった。ナディアは格子の石に触らせず、森守の一人を地上の南門へ走らせる。
「出口を先に見ます」
ミレイアは古い図面の端を広げた。隔離区画の排水は、かつて温室裏の低い壁から外へ出していたという。今は草を植えて塞いだ場所だ。学院の敷地内なので、学生も地上の小道までは行ける。ナディアは尽たちに、森守の後ろを離れないよう言った。
温室を回ると、庭仕事の生徒が二人、濡れた籠を抱えて道を空けた。尽は風を弱く流し、土壁に並ぶ古い穴のうち、空気が吸い込まれるところを探す。三つ目の茂みの下で、風が細く返ってきた。
「ここ」
ペペが枝を持ち上げる。石組みの口は人の肩も入らない大きさだった。その前に、灰色の外套を着た人間がしゃがんでいる。木の小さな巻き枠から白糸を引き、濡れないよう袖へ巻いていた。
相手は顔を上げた。ナディアが名乗るより早く、手元の糸を短い刃で切る。ユーノの鏡板に黒い針の影が跳ねた。
「触らないで!」
リゼッタの声で、ペペは伸ばしかけた手を引っ込めた。切れた糸は水口へ戻り、巻き枠を持つ者は庭の柵へ走る。森守が追ったが、濡れた石で足を取られた。
尽は反射的に足元へ風を集めかけた。レオハルトが倒れた実習室の床が頭をよぎる。息を吸い直し、柵の脇へ積んだ空の苗籠だけを動かした。籠が道をふさぎ、相手は越えるために一歩遅れる。
「右、針が残ってる!」
ユーノが叫ぶ。巻き枠に短い糸がまだ巻いてあった。ナディアは袖を掴まず、相手の肩を柵へ押しつける。追いついた森守が刃のある手を押さえた。リゼッタは小さな火で足元を照らすだけにした。枯れ葉には火を近づけない。
「名前を」
ナディアが言う。相手は息を乱したまま、庭の排水を点検しに来たと答えた。顔を隠す布は口元だけで、尽の知らない若い男だった。
「刃を先にしまう点検か」
ナディアは巻き枠と刃を別々の袋へ入れさせた。男の腰には、学院の古い設備札がある。板の裏に〈南水路・予備〉と焼き印が押され、表には持ち主の名を書いた跡だけが残っていた。
フィオナが札を見ても、まだ誰のものかは分からない。ミレイアは設備室の貸出簿を取りに行くと告げた。男はその時、初めて顔を上げた。
「あそこは、ずっと閉じていたでしょう」
彼が見ていたのはナディアではなく、温室の地下へ続く階段だった。森守が連れていく間も、巻き枠から切れた白糸が一本、袋の口に引っかかっていた。




