第百八十六話 厩の白布
厩番は、書状を読んでから馬房の戸を押した。中の栗毛が鼻を寄せると、彼は上着の袖を噛まれないよう肘を引く。
「黒馬なら覚えています。脚を擦りむいて来たから」
ナディアと尽は、公営宿の厩へ出向いていた。返書を待つより早い。セレーネが学院からの立会札を持ち、厩番の話を一語ずつ書き取る。
「どの脚でしたか」
「左の前。ここです」
厩番は栗毛の前脚には触れず、自分の足首の少し上を指した。黒馬が宿へ入った最初の晩、その場所を擦りむいていた。水で洗い、白い麻布を巻いたという。
「包帯はいつ外しました?」
「出るまでそのままです。二晩目に主人が馬を連れ出して、明け方に戻した時も巻いていた」
ナディアは、主人、と書く手を止めた。
「馬を連れ出したのは誰ですか」
「部屋の客。ソラヴェインの書記官だと宿帳にありました。顔は……夜は帽子をかぶっていたけど、戻った時に鞍を外したのは私です」
箱六号が運ばれた朝だった。厩番は泥の固まった蹄を洗い、馬房へ戻した。昼前にカルヴォスが宿代を払い、同じ馬へ鞍を載せて出たという。彼は帳面を開き、明け方の帰厩と午前の出立を、別々の行で示した。先に王宮へ送られた宿の返書には、夜中の出入りだけが転記されていた。
「午前の出立は、どちらへ向かったか見ましたか」
「宿の前では川上へ。でも分かれ道があります。港にも北の森にも行ける」
尽は運搬係の図を広げた。水車小屋へ着く道も、その分かれ道を川上へ進む。厩番は地図を覗いたが、小屋の名には心当たりがなかった。
「布は普通の白です。うちで怪我した馬には巻きますよ」
「分かっています」
ナディアは頷く。カルヴォスの馬が白布を巻いていたこと、その馬で宿を出た時刻が運搬係の見た馬と合うこと。厩番が証言できるのはそこまでだ。水車小屋で箱を受け取った男の顔は、やはり見えていない。
厩の外で、セレーネが筆を止めた。
「その朝の出立を書き落としたのは、どうして?」
「宿へ来た晩と、二晩目の夜の出入りを聞かれたので。宿を引き払った後のことは書きませんでした」
厩番は宿帳を叩いた。帳面の頁は最初から残っている。ナディアはその場で写しを取り、厩番に読み聞かせて署名をもらった。尽は店先の水桶で手を洗いながら、運搬係が言った「馬まで荷の数に入れるんですか」を思い出す。聞く側が欄を狭く作れば、そこから外れたものは落ちる。
同じ夕刻、王国の監査官の机には港の役所から返事が届いた。カルヴォスが用務表に書いた三日間、窓口の受付簿にも通商資料の閲覧簿にも彼の名はない。役所は、非公式に職員と会った可能性までは否定しないと添えている。
監査官はカルヴォス自身が書いた行程表を横へ置いた。そこには港の役所で資料を照合したと、彼の筆で記されている。監査官は受付簿の写しを封筒へ戻し、二度目の召喚状を書いた。
書記室へ使いが向かう頃、エルシリンから届いた厩番の新しい証言が、国境の中継所を通過した。




