第百八十五話 石垣の向こうの馬
運搬係は、半日分の賃金が戻るのかと聞いてから椅子に座った。フィオナは前の聴取書を出したが、尽は開かず、水車小屋までの道を指でなぞる。
「箱を渡したあと、どちらへ帰りましたか」
「来た道です。橋まで戻って、商会の札を返した」
「受取人が石垣の向こうへ行ったのは見たんですよね」
「見ました。だから受領印を、と声を掛けたんです」
運搬係は帽子を膝に置き、水車小屋の石垣を鉛筆で描いた。初めの図より川側の壁が長い。彼は待っている間、石垣の風下で昼飯を食べていたという。そこからは小屋の入口は見えるが、裏の取水路へ下りる坂は見えない。
「男は箱を受け取って、ここを曲がった。顔は布で覆っていました。あとは馬が鳴いた」
ナディアが顔を上げた。
「馬がいたんですか」
「体はほとんど見えませんでした。黒い馬です。石垣の切れ目に、尾が一度」
「前の聴取では言わなかった」
「何を運んだか、誰に渡したかと聞かれました。馬まで荷の数に入れるんですか」
少し刺のある返事だった。半日分を引かれたまま、何度も同じことを話させられている。ナディアは問い直す前に、彼の前へ前回の記録を向けた。馬のことは載っていない。今の話もそのまま追加する、と約束する。
ペペが温室の隅から丸椅子を運んできた。脚の一本が短く、座るたびに音がする。運搬係はそれを嫌がって元の椅子へ座り直し、ようやく続きを話した。
「尾だけじゃない。前脚に白いものが巻いてありました。布だと思う。男が箱を馬に載せたかどうかは、壁で見えませんでした」
黒馬。尽はカルヴォスが見張り小屋を去った時の馬を思い出したが、脚に布があったかは覚えていない。あの日は谷の箱と書記官の顔ばかり見ていた。
「布は左右どちらに?」
ユーノが尋ねた。運搬係は手を馬の形にして、紙の上で向きを変える。切れ目から見えた尾、馬の頭が向いた川上、わずかに動いた脚。しばらく考え、鉛筆を置いた。
「右か左かは、言えません。そこまで書かれると間違えます」
フィオナは白布とだけ記した。ナディアは公営宿の厩へ、カルヴォスの黒馬に当時脚の手当てがあったか照会を出すことにした。宿の記録には、夜に馬を出して明け方に戻したことまでしかない。水車小屋に別の黒馬がいた可能性もある。
「もし厩番が同じ布を見ていたら、受取人はカルヴォスですか」
リゼッタが聞く。
「馬の持ち主と箱を受け取った男は、別でも成り立つ。乗り手が一人だったかも、運搬係には見えていない」
ナディアの答えに、尽は鉛筆を持った。二つの聴取の間に、馬の形を小さく描く。別々に見た人間が、同じ馬を指しているか。まずはそこからだった。
帰り際、運搬係は帽子の内側から賃金の控えを出した。折り目が擦り切れかけている。
「これも、まだ要りますか」
「写しは取った。原本は持っていてください」
フィオナが言うと、彼は控えをしまった。尽は温室の扉を開けてやる。運搬係は一歩出てから、椅子を振り返った。
「受領印がないから払えないって、商会にはもう一度言われました。馬のことが分かっても、そこは変わらないんでしょうね」
ナディアはすぐに慰めなかった。代わりに、商会へ出す照会の末尾へ、未払いの手当について再審を求める一行を書き足した。運搬係がそれを見届けてから、扉の外へ出た。




