第百八十話 名乗った男
「運搬係の顔は、よく覚えていません。でも、仕事を頼んだ男は覚えています」
番人はやっと言った。唇が青い。ナディアは縄を解かず、森守に乾いた毛布を持って来させた。彼が肩に掛けるのを待ってから、もう一度尋ねる。
「見たことを、順に話して」
箱六号を出す二日前、番人のもとへ男が来た。北谷測量班の予定を知っており、観測杭の補修に保護材が一本要ると言った。番人が正式な命令番号を求めると、男は封のない書状を机に置き、「急ぎの間だけ、班の名で預けてくれ」と頼んだ。
「番号のない札を通したのは、あなたですね」
フィオナが聞く。番人は毛布の端を握り、頷いた。
「古い束から一枚抜きました。箱は六号。商会へ出す依頼書にも、局の印を押した」
ペペが顔を上げた。運搬係は、林務局から来た仕事だと思って水車小屋まで行った。印を押したのが番人なら、商会の受付係が封を信じた理由も分かる。
「温室地下を返送先に書いたのは?」
「男です。私は裏を見ていない」
ナディアは紙片のことを続けて聞かなかった。原本に残る字と番人の話は、後で別に照らせる。
鍵の貸出欄も、番人が北谷測量班と書いた。箱を商会の運搬係へ渡した日の午後、男が再び来て、十四番の鍵を求めたという。番人は鍵札まで一緒に手渡した。札は本来、空いた釘に掛けるものだ。帰ってきたら棚へ戻せばいいと、その時は思った。
「相手は同じ男?」
「声は同じでした。顔には布を巻いていた。最初の日は巻いていませんでした」
水車小屋で箱を受け取ったのも、その男か。尽は聞きかけたが、口を閉じた。番人は資材庫にいて、運搬係が見た受取人を知らない。ナディアも二人を同一とは書かせなかった。
「十四番の鍵は、いつ戻った」
「箱が谷で見つかった後です。資材庫の裏戸に、布へ包んで置かれていた。誰が置いたかは見ていません」
番人は返却欄を埋めず、鍵を自分の机に隠した。今日、水車小屋の鍵札が見つかったと聞いて、取水路へ入った。格子の白糸も取り外すつもりだったと認める。糸を結んだ者は知らないと言い、奥で森守の灯を見た途端、水門を開けて逃げた。
「金を受け取った?」
リゼッタの問いに、番人は長く黙った。やがて指を二本立てる。
「銀貨を二枚。仕事を失うと思って、それを受け取ったことから隠した」
フィオナは金額を書き、男が何を名乗ったか尋ねた。番人は濡れた前髪の奥からセレーネを見た。
「ソラヴェイン王宮の書記官。カルヴォス、と」
尽は見張り小屋で黒馬を降りた男を思い出した。谷の箱を封じた後、引渡しを求めに来た使者。帰り際、あの男は箱を見た。
「証になる物は?」
ナディアが聞く。番人は首を振る。見せられた書状は男が持ち帰り、身分札も確かめていない。名を使った別人の可能性が残った。
ナディアは十四番の鍵を封じ、番人を森守に預けた。フィオナは王国の監査官へ、カルヴォスがその日にどこにいたか照会する文を書く。番人の話を添え、今夜出る王都便の袋へ入れた。尽は封筒を見送ったあとも、見張り小屋でカルヴォスが谷の箱へ向けた目を思い出していた。




