第百七十九話 水路の出口
「隊長、奥に人がいる!」
伝声管の向こうで、森守が叫んだ。格子に巻かれた糸へ鏡板を向けた時、奥の水門が開き、水が膝まで跳ね上がったという。二人は岸の石段へ退いている。怪我はない。濡れた灯が、管越しにも小さく鳴っていた。
ナディアは人を追って狭い水路へ入るなと命じた。水門を開けた者がいるとしても、奥の足場は崩れかけている。まず出口を押さえる。詰所にいた森守を二組に分け、川下へ走らせた。
「出口は二つですか」
ユーノが古い地図を広げる。太い線は小屋の裏から川へ戻り、細い線は雑木林の中で切れていた。リゼッタが昨日の水位表を置く。今週は雨が少なく、細い線の先も水が引いている。
「ここ、塞がってないかも」
尽が指したのは、地図の端に小さく書かれた排泥口だった。古参の森守が覗き込み、顔をしかめる。
「昔、泥を掻き出す穴だ。子どもの頃は板で蓋をしていたが、今は知らん」
ナディアは三人目の隊員を呼び、排泥口へ向かわせた。尽たちは柵の手前から動かない。外へ出た隊員の足音が消えると、詰所には伝声管の水音だけが残った。
ペペは詰所の戸へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。走れば早く着けると思う。尽にもその気持ちはあった。けれど狭い水路へ二人増えたところで、奥の森守が安全になるわけではない。
「格子の糸は?」
セレーネが管へ問うた。
「まだ触っていません。水が来た時に、巻きが一つ緩みました」
森守は石段から答えた。鏡板に映った黒い針の揺れは、谷の網ほど強くない。糸が水門を動かしたのか、水門が動いたために糸が引かれたのか、現場では判じられなかった。
しばらくして、川下から鳥笛が二度鳴った。排泥口の方だ。ナディアが返すより早く三度目が鳴り、短い叫びが続く。尽は地図を押さえる指に力を込めた。
捕まえた、と伝声が来たのは、そのあとだった。板蓋の外へ這い出た人影が森守を見て引き返し、泥にはまった。取り押さえた隊員は、相手が腰に鍵を下げていると報告する。十四番の数字が刻んであった。
日が落ちる前、森守に挟まれてその人が詰所へ戻った。灰色の外套から水が滴る。顔を上げた時、ペペが小さく息を吸った。
北の資材庫で八本の帳面を見せた番人だった。
ナディアは鍵を預かり、番人の手を縛った縄を確かめた。彼に問う前に、取水路へ残した二人の無事を聞く。二人とも岸に上がり、水門は閉め直されたという。ようやく番人へ向き直る。
「あの日、箱六号を受け取った者の顔は覚えていないと言ったな」
番人は唇を動かしたが、返事が出なかった。泥のついた手から、水が一滴、詰所の床に落ちた。




