第十八話 止めた理由まで残せ
圧力弁の修理は、洗浄場では行わなかった。
封蝋を門衛、荷改め官、ネヴァンの三者が確認してから切る。
外殻を開く前に、弁全体を工房へ運ぶ。
主槽の水路には、代わりの盲板を二枚。
一枚は洗浄場。
一枚は水路管理所。
片方だけが外しても、水は通らない。
修理中に誰かが槽を動かさないためだった。
弁は見た目より重い。
尽は持たない。
ティムとバルクが運搬台へ固定し、フィオが封蝋の切断面を細密画へ残す。グランドーガは、尽が手を出そうとするたび短い固定板を指した。
弟子になっても、重い物を持てない事実は変わらない。
工房の赤札台へ弁を置く。
外殻螺子を順番に緩める。
一、三、五。
二、四、六。
片側だけ先に外すと、中の膜へ圧が残っていた場合に蓋が跳ぶ。
圧は抜けている。
それでも手順は変えない。
蓋の内側から、白い粉が落ちた。
ガルドが採取する。
洗剤結晶。
緑粒は見当たらない。
中央の柔らかい膜は、縁が一箇所裂けていた。裂け目に白結晶が入り、乾いて固まっている。
指針軸は錆びていない。
膜が動かないため、指針も止まった。
原因を一つにまとめれば、洗剤の侵入と乾燥。
だが、なぜ本来入らない場所へ洗剤が入ったのか。
返流管の内側を見る。
細い逆止め片が、上下逆に入っている。
前回修理の刻印は、再生輪業組合ではない。
外部の水路修理業者。
逆止め片を交換した際、向きを間違えたらしい。
洗浄中の圧が下がるたび、洗剤水が少しずつ導圧管へ戻った。
膜の周囲で乾く。
固着する。
最後に膜が裂れる。
尽は、第十五話で返流石を逆に置いた自分の練習灯を思い出した。
向き一つ。
低い力なら青い霧で済む。
大きな槽なら、数十回後に安全弁が死ぬ。
図面には逆止め片の形が描かれている。
しかし、向きを示す三角は小さく、油汚れで消えていた。
部品本体にも、片面だけ浅い刻線がある。外せば分かるが、暗い槽脇では見落とせる。
前の修理者が怠けたのか。
教育されていなかったのか。
似た部品を取り違えたのか。
本人の記録がなければ決められない。
今できるのは、同じ間違いを減らすことだった。
ティムは新品の逆止め片へ、大きな赤三角を刻もうとする。
尽は赤と碧の灯りを当てる。
赤では見える。
碧では、赤色が黒く沈む。
フィオが白い星銀粉を溝へ入れた。
赤でも碧でも光を返す。
さらに、向きを間違えると蓋の突起へ当たり、最後まで閉まらない小さな耳を付ける。
読めなくても。
色を見分けにくくても。
手で違いが分かる。
文字、色、形。
三つで向きを示す。
膜は同じ材質で交換しなかった。
旧膜は赤光で柔らかくなり、碧光で硬くなる単層革。変化を繰り返した縁から裂れている。
材料棚に、薄い繊維を交差させた複層膜があった。
高価。
耐用回数は長い。
ネヴァンと組合の代表を工房へ呼び、二案を見せる。
同材交換。
安い。
十二双曜潮ごとの点検。
複層膜。
高い。
三十六双曜潮ごとの点検。
ただし新材のため、最初の六双曜潮でも確認。
組合代表は安い方を選ぼうとした。
ネヴァンは高い方を指した。
主槽が止まった間の損失を考えれば、膜代の差より停止期間の方が大きい。
二人で料金負担を話し合う。
最終的に、組合が材料差額の半分、洗浄場が半分。前回修理業者への請求は、責任確認後に別途。
尽は決定欄へ署名しない。
修理案を描いたのは工房。
費用を決めたのは依頼側。
役割を混ぜない。
複層膜を固定する。
逆止め片を正しい向きへ。
指針軸を清掃。
導圧管を乾いた空気で通す。
外殻を仮止め。
低圧試験。
指針が動く。
規定線の手前で返流路が閉じる。
圧を下げる。
元へ戻る。
赤い鏡箱。
碧い暗箱。
膜の反応速度は違うが、許容時間内。
三十回。
白粉漏れなし。
指針ずれなし。
完成札には、修理済みではなく〈工房試験済み〉。
槽へ戻し、実機で試すまで使用可にはならない。
洗浄場へ運び戻す。
盲板はまだ外さない。
弁を取り付け、低い水圧から始める。最初は清水だけ。次に、緑粉を含まない試験布と青い色粉。
圧力。
水量。
返流。
停止。
布の内外に残る色。
主槽は動いた。
規定圧で安全弁も働く。
だからといって、すべての洗浄を再開しない。
荷改め官は許可を二つに分けた。
普通布の主槽洗浄。
条件付き再開。
鉱石、薬品、用途不明布。
引き続き停止。
再開第一号の荷は、その場で選ばれた。
氷風城内の宿屋から出た白い寝台布。
入荷元が確認できる。
泥と汗だけで、鉱石や薬品へ使われていない。
束を開く前に、荷改め官、ネヴァン、作業者が同じ札を読む。尽には全部の文章は読めないが、宿、寝台、普通泥の絵は分かる。
洗う前の重さ。
使用水量。
圧力弁の最大値。
返流水の濁り。
作業者の皮膚と目の状態。
洗った後の重さ。
乾燥後、束の中央から一枚を抜き、白布で拭う。
全部を一枚の札へ集めず、機械、貨物、作業者の三枚へ分ける。三枚には同じ批次刻線を付け、あとで照合できるようにした。
主槽は一巡目を終える。
圧力弁は規定線で開き、余圧を返流槽へ逃がした。
二巡目。
指針の戻りが一呼吸遅い。
許容時間内だが、尽は記録する。
三巡目。
同じ遅れ。
複層膜の初期癖かもしれない。
次の六双曜潮点検まで待たず、最初の十二束後にも指針確認を追加した。
修理直後ほど注意して見る。
新品だから安心、とはしない。
寝台布は、普通泥用の完了印を受けた。
噴射羽根だけの印。
危険洗浄の二重枠はない。
集荷所が後で同じ〈洗浄済み〉へまとめれば、三枚の批次記録と印の形が食い違う。少なくとも、以前より矛盾を見つけやすくなった。
洗浄場の作業者全員が、新しい分類札を読む訓練を受けるまで扱わない。
新しい札は、文字だけではなかった。
普通泥は茶色の波線。
油は黒い滴。
鉱粉は三角の中に粒。
薬品不明は空の壺に疑問印。
表洗いは手と水桶。
主槽洗浄は噴射羽根。
危険洗浄は噴射羽根と赤灰の二重枠。
完了印も三種類。
〈洗った〉一つへまとめない。
フィオが細い刻紋で原版を作り、バルクが暗所でも指で読める凹凸を加える。ティムは荷役人に見せ、意味が通じるか試す。
尽が地球の記号をそのまま押し付けたのではない。
現場の者が読める形へ、皆で直した。
作業者の体調欄も追加された。
痒み。
咳。
目の痛み。
眩暈。
原因が分からなくても記録し、同じ荷の作業を一時停止できる。停止した作業者の賃金を誰が負担するかは、組合と洗浄場の契約へ新しい項目が必要になった。
止まれと言うだけでは、人は止まりにくい。
止まったせいで食費を失うなら、なおさらだ。
組合代表は渋った。
ネヴァンも、全額を洗浄場だけで払えない。
荷改め所が、原因判定までの最初の一作業分を共同保証金から出す案を提示する。長期補償は別の会議。
完全な制度ではない。
それでも、痒みを隠して作業を続けるよりは一つ逃げ道ができた。
再開試験には、エドリクとヴェズラも立ち会った。
二人とも、自分の貨物が巻き込まれた当事者だ。
顔を合わせると、まだ互いを睨む。
禁闘紐はない。
それでも手は出さない。
エドリクは主槽の水量札を確認する。
ヴェズラは布の内側から採った色粉を見る。
両者が同じ検査結果へ別々の印を付ける。
仲直りではない。
同じ荷を、同じ基準で確認しただけだった。
青縁布の汚染責任は、まだ確定していない。
洗浄場は表洗いと記録した。
集荷所の帳面が残る。
第三昇降口の購入判断も残る。
差額八銅貨の行方も残る。
機械を直しても、帳面の問題は直らない。
尽は圧力弁の修理札を閉じ、調査札は開いたままにした。
帰り際、ガルドが集荷所への道を地図で示す。
尽は地図の上を赤極、下を碧極だと思った。
ティムが地図を上下逆にする。
今度は、碧極が上。
さらに横へ回す。
氷風城の地図は、北を上にするのではない。掲示場所から見て、赤極側を赤縁、碧極側を緑縁へ合わせる。持ち歩く地図は、目的地の光へ向けて回す。
尽は分かったつもりで頷いた。
ティムが、赤極の集荷所を指す。
尽は反対側を指した。
全然分かっていなかった。
グランドーガは集荷所へ行く許可札を閉じる。
膝が治るまで、次の現場調査はなし。
尽は不満だった。
しかし、地図すら逆に読む弟子を一人で歩かせない判断には反論できなかった。
洗浄場の圧力弁は動いた。
普通布の洗浄も再開した。
青縁布の経路は、まだ地図の先へ続いていた。




