第十七話 止まった槽で、誰が洗った
洗浄場は、氷風城の下層にあった。
工房から階段で三層。
メルダの許可範囲を超えている。
尽は歩いて行けなかった。
グランドーガが用意したのは、荷車ではなく点検用の小さな軌道車だった。大隧道の壁沿いに敷かれた細い鉄路を、手回し輪で進む。
ティムが輪を回す。
ガルドが採取箱を固定する。
尽は座席から立たない。
グランドーガは腕を組み、誰より場所を取っていた。
「親方が降りたら、もう一人乗れるんちゃうか」
老人には通じない。
ティムには声の調子だけ伝わったらしく、笑った。
軌道車は、赤光を導く縦穴から遠ざかる。岩壁の碧い鉱脈が太くなり、通路を照らす灯りも青みを増した。
下層では、時間の感覚が空より鐘へ近づく。
洗浄場の入口には、白い輪を三重にした看板があった。
再生輪業組合。
青縁布の記録にあった印とは、外周の切れ目が一つ違う。
遠目には同じ。
並べれば違う。
尽は単語帳の二つの印へ、別の番号を振った。
門前には門衛と荷改め官がいる。
営業は停止中。
入口の水路へ灰色の封鎖板。
力石箱には赤い停止紐。
グランドーガは封へ触れず、工房札と点検依頼札を見せた。
管理人が読み上げる。
圧力弁の機械点検。
青縁布の処理経路確認。
緑粉の採取は、ガルドと荷改め官のみ。
尽とティムは装置へ触れない。
修理を始めるなら、別の許可札が必要。
今日は調査。
動かさない。
目的が分けられていた。
洗浄場の班長は、背の低い人間だった。
名はネヴァン。
腕に白輪の刺青。腰には帳面を三冊下げている。
彼は一行を主槽へ案内した。
主槽は、円筒形の大きな釜に似ている。
上から布を入れる。
横の水路が高圧水を送る。
底の回転板が布を返す。
最後に温風管で乾かす。
力源は水路上の圧石。
導路は水と刻紋管。
負荷は噴射羽根と回転板。
返流は余圧を逃がす上部槽。
停止は入口弁と力石箱の二箇所。
尽は昨日覚えた五つを図へ書く。
魔法灯とは形が違う。
それでも、どこから力が入り、どこで働き、余りがどこへ行き、何が止めるかを分けると見やすい。
問題の圧力弁は、主水路の根元にあった。
青銅の外殻。
上下二本の導圧管。
中央の指針。
規定を超えると、内側の膜が押され、力石へ戻る導路を閉じる。
今は指針が赤線の手前で止まっている。
動かない。
外殻の止め螺子には、作業停止時の封蝋が残る。
封蝋を壊さず、弁を分解することはできない。
では、誰かが修理して再稼働した可能性は低い。
尽は弁の横を見る。
細い補助管が、主槽を避けて奥へ伸びている。
その先に、四角い石槽が二つ。
予備槽だった。
主槽が止まったとき、普通布を水へ浸し、手回し羽根で表面を洗う。圧力も温風も使わない。
ネヴァンが帳面を開く。
主槽停止。
予備槽使用。
青縁布の束数。
作業者名。
水量。
記録はある。
隠してはいなかった。
ガルドが、別の購入記録を並べる。
そちらには〈洗浄済み〉。
予備槽帳には〈表洗い〉。
同じではない。
ネヴァンは自分の帳面を指し、強く何か言った。
ティムと荷改め官が訳す。
洗浄場は表洗いとして出した。
料金も表洗い分しか受け取っていない。
再生輪業組合の集荷所が、購入者へ渡す際に〈洗浄済み〉へまとめた。
少なくとも、ネヴァンの主張はそうだった。
帳面の銅貨欄を見る。
主槽洗浄なら十二。
表洗いなら四。
洗浄場の受取は四。
第三昇降口の支払は十二。
差の八が、どこへ行ったかは別の帳面が必要になる。
機械が勝手に動いたのではない。
停止札を無視して主槽を再開したのでもない。
止まった主槽の横で、別の作業をした。
それが流通の途中で、同じ〈洗浄済み〉になった。
最初の矛盾は一つ解けた。
代わりに、別の問題が現れた。
なぜ鉱石包みを、普通布と同じ表洗いへ入れたのか。
ネヴァンは入荷札を出す。
品名は〈厚織緩衝布〉。
鉱石包みの印がない。
危険粉付着の赤三角もない。
洗浄場へ届いた時点で、用途情報が落ちている。
青い縁だけでは、碧暮鉱山の布と判断できない。同じ色は穀物袋や防寒幕にも使われる。
尽は、地球の工場で見たラベルを思い出す。
同じ部品でも、材質や処理が違えば番号が違う。
色だけで管理すれば、いつか混ざる。
しかし、ここで新しい番号を付ければ解決すると決めるのも早い。
文字を読めない荷役人。
暗い倉庫。
泥で札が隠れる輸送。
種族ごとに違う言語。
記号は、見えることと理解できることの両方が必要になる。
ガルドは予備槽の底を、密閉採取具で擦った。
緑粒。
灰石。
青い繊維。
市場粉と似た組み合わせ。
同じだとは、まだ書かない。
採取場所番号を付け、壺へ封をする。
尽は装置から離れたまま、予備槽の水量記録を見る。
青縁布十二束。
使用水は、普通布十二束の半分以下。
表面の泥を落とすだけなら足りる。
繊維の奥の鉱粉を抜くには足りない。
ネヴァンも、それは認めた。
鉱石包みと知っていれば、主槽の修理まで受けなかった。
では、作業者は悪くないのか。
情報がなかった。
予備槽の規定通りに洗った。
帳面にも表洗いと書いた。
そこだけ見れば、手順違反はない。
だが、青縁布を扱った若い作業者が、途中で腕の痒みを訴えた記録もあった。
ネヴァンは作業を止めず、手袋を厚いものへ替えて最後まで続けている。
原因が布か、洗剤か、冷水か分からなかったからだという。
体調異常を、危険情報として上へ戻さなかった。
規定違反ではない。
規定に、その欄がなかった。
その若い作業者は、まだ洗浄場にいた。
猫のような短い耳を持つ獣人の女で、名はアニス。
彼女は門衛の立会いで当日の作業を再現した。危険な布は使わず、白い試験布と空札だけを使う。
入荷口で束数を数える。
商会の紐を切る。
元の荷札を外す。
布を厚さと色で分ける。
洗浄場用の新しい札を付ける。
外した荷札は、入口の札籠へ入れる。
槽の作業者が見るのは、新しい札だけだった。
青縁布へ付いていた入荷札には、厚織緩衝布としか書かれていない。札籠に残った元札も同じ。鉱山名や包んでいた鉱石の種類はない。
アニスが情報を見落としたのではなく、見る段階まで届いていなかった。
一方で、彼女が腕の痒みを訴えたときの手順も再現する。
作業を止める。
班長へ見せる。
皮膚を水で洗う。
厚手袋へ交換。
作業再開。
停止した時間は帳面にある。
理由の欄は〈装具交換〉。
痒みとは書かれていない。
ネヴァンは隠したつもりはなかった。帳面に選べる理由が、破損、食事、装具交換、槽故障の四つしかなかったからだ。
分からない異常を書く空欄がない。
アニス自身も、手袋で治まったため大事ではないと思ったという。
荷改め官は、当時の対応をその場で犯罪とは決めなかった。
ただ、体調変化と貨物札が別々の帳面に入り、二度と結び付かない構造を記録した。
誰か一人が嘘をつかなくても、情報は工程の継ぎ目で消える。
尽は〈止める〉の札を見る。
機械だけを止めても足りない。
分からない異常が出たとき、荷物の分類も止められなければ、次へ流れる。
一行は、主槽の外側点検へ戻った。
封蝋の上から指針軸を測る。
上管へ低い試験圧。
指針は動かない。
下管へ同じ圧。
こちらも動かない。
弁全体が固着している。
外側の油口には、緑色ではなく白い結晶が詰まっていた。
洗剤が乾いた物らしい。
緑粉が圧力弁を壊した、とも言えなくなった。
市場の軸受けと、同じ故障原因ではない。
ガルドは白結晶を別壺へ取る。
尽は記録図の〈緑粉〉へ引いた仮線を消した。
消した跡は残す。
疑ったことまで隠さない。
点検が終わる頃、左膝は三角になった。
尽は軌道車へ戻る。
まだ集荷所の帳面を見たい。
作業者の話も聞きたい。
しかし、今日の許可は洗浄場までだった。
グランドーガは修理札を一枚だけ受け取った。
圧力弁を直す。
洗浄場を再開するかは、修理とは別に荷改め所が決める。
機械が動くことと、動かしてよいことも同じではなかった。
帰りの軌道車で、尽は記録を四列に分けた。
確認できたこと。
ネヴァンの主張。
記録同士の矛盾。
まだ必要な資料。
〈止まった槽で誰が洗った〉という最初の疑問には、答えが出た。
誰も主槽では洗っていない。
予備槽で表面だけを洗った。
けれど、その答えだけでは、汚れた布が〈洗浄済み〉になった理由は終わらなかった。




