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第百七十五話 水車の下の糸

水車小屋に屋根はなかった。森守の二人は落ちた梁を避け、石積みの外から中を見た。川の流れだけが、止まった水車の下で音を立てている。運搬係が指した待ち場所には草が生え、踏み跡は残っていなかった。


 一人が石垣の内側へ枝を差し込む。白いものが引っかかり、枝先で震えた。糸だ。風に任せて動く蜘蛛の糸より太く、石の割れ目にはめた小石に二度巻きつけてある。


「触るな」


 もう一人が枝を止めた。谷の網は、糸を切ると結び目の術が動く仕組みだった。二人は結び目の先を探し、石垣の裏に続く一本が途中で切れているのを確かめてから、周囲を図に描いた。水車の軸に残る糸は短い。先端へ鏡板を向けると、黒い針に似た揺れが一度だけ映る。


 森守は糸を石ごと小箱へ収め、封をした。落ちた梁の下までは手を入れない。足元を崩せば、証拠ごと川へ落ちる。二人は小屋の外へ戻り、封鎖柵の鍵をナディアへ返した。


 翌日、その小箱がエルシリンの研究棟へ運ばれた。尽は仕切りの外で、ナディアが水車小屋の図を広げるのを見ていた。二本の石の間に一本だけ描かれた線は、あの谷で胸の高さに張られた網と比べると、ひどく小さい。


「ここで網を編んだのかな」


 ペペが言う。


「糸を結んだ場所とは言えるかもしれない。網を全部作ったかは分からない」


 ユーノは森守が残した谷の糸の写しと、水車の下の実物を並べた。谷では中央の結び目に黒い針の揺れが集まり、切れたことを外へ知らせようとした。水車の糸にも、二本を逆向きに巻いて小さな輪を残す、同じ結び方がある。鏡板には弱い影が出たが、こちらはどこにも繋がっていない。


 尽は仕切りに手をつきかけ、引っ込めた。谷で白糸を浮かせた時、若い角獣が暴れて風が弾かれた。今ここにあるのは、石に結ばれた短い残りだけだった。


 ナディアは谷の木箱に入っていた三つの空瓶も持って来ていた。瓶はそれぞれ別の封に入っている。薬材の教師は、まず外側の土を採り、次に内壁を少量の液で洗った。一本目からは眠り草の加工液に似た甘い樹脂、二本目からは羽根を保存する油に近い成分が出た。三本目の液だけが、鏡板の白い粉と同じ二つの反応を示した。


「術式保護材の古い型と合います」


 教師は三本目の瓶を指した。口のあたりの封蝋は失われている。番号も読めない。北の資材庫から出た一本がこの瓶に移されたのか、別の瓶の材料を入れ直したのかは判定できなかった。


「少なくとも、あの木箱には保護材を入れた瓶があった」


 リゼッタの言葉に、ナディアが頷く。水車小屋の糸と谷の網には、同じ結び方と黒い針の揺れがある。箱六号も谷から見つかった。三つの物が同じ人の手で揃えられたかについては、まだ誰の証言もない。


 セレーネは三本目の瓶を見たまま、フィオナへ小さく言った。


「水車小屋で箱を受け取った人の名が要ります」


 ナディアは頷き、商会へ保全を頼んだ運搬依頼の原本が届き次第、印を確かめると答えた。教師が三本の瓶を元の封へ戻す間、尽は水車の糸の図を自分の観察紙に写した。石の割れ目に残った短い輪だけ、どう描いてもまっすぐにならなかった。


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