第百七十三話 橋番の通行札
小さな橋は、詰所から歩いて十分ほどのところにあった。川幅は狭いが、水は石の間を速く流れる。北へ渡った先に、今は鎖の掛かった林道が続いていた。ナディアは橋の手前に皆を止め、当番小屋の戸を叩いた。
出てきた橋番は、ナディアの外套を見るなり「また鎖か」と言った。朝から柵を直している音がここまで聞こえていたらしい。古い日の通行記録について話すと、彼は眼鏡を掛け直し、小屋の箱から薄い帳面を出した。
「人の顔は覚えていないぞ。あの週は荷運びが多かった」
「覚えていることと、書いたことを分けて話してくれ」
ナディアが答えた。橋番は頁をめくる。持出し札の日付には、昼前に一人が北へ渡り、日が傾く前に同じ通行札を持つ一人が戻ったと記されていた。行きは「木箱一」。帰りの荷物欄は空白である。
尽は日付を確かめた。箱が資材庫から出た日と合う。
「帰りは、空箱も持っていなかったんですね」
「この欄に書き忘れがなければな」
橋番は鉛筆の跡を指で追った。雨で濡れた頁を乾かしたことがあり、他の日は字が滲んでいる。この日の二行は読めた。通行札の番号も同じだった。
その番号を見て、フィオナが顔を上げる。橋番は、通行札の種類ごとに番号を別の列へ書いていた。問題の番号は、測量班の列にはない。
「商会用の札ですか」
「ああ。林務局に物を納める連中が使う。測量班の札なら、こっちの列だ」
セレーネは指差された隣の列を見た。北谷測量班の名で資材庫から出た箱は、橋では港仲介商会に割り当てられた通行札とともに記録されていた。ナディアは詰所へ使いを走らせ、札の貸出簿を持って来させた。
橋番は記録を閉じなかった。待つ間、ペペが川のほうを覗き込むと、浅瀬に魚が一匹だけ逆らって泳いでいた。尽も見たが、すぐに岩陰へ消えた。小屋の壁には、古い濡れ外套が乾ききらないまま掛かっている。
貸出簿には、通行札の番号と「港仲介商会」の名があった。貸し出したのは二年前。商会は荷を北門へ運ぶ契約を結び、その後も林務局向けの配送に使える札を預かっていた。札は人ではなく商会へ交付され、あの日に誰が持ったかは、橋の帳面には載っていない。
「商会の人なら、六号の箱を持っていった人だな」
ペペが言いかけると、リゼッタが口を挟んだ。
「その札を持っていた人、ね。借りた人と同じかもまだ聞いてない」
ナディアは二人のやり取りを聞いてから、橋番へ向き直った。箱を背負った人と、夕方戻って来た人が同じだったか。橋番は記録を見て、首を振る。
「札は同じだ。顔までは書いていない。帰りに荷がなかったのは覚えているよ。手を空けて、橋の板が割れている場所を避けて歩いた」
尽が足元を見る。橋の中央に、新しい板が一枚入っていた。古い板の割れ目は、脇へ立てかけてある。橋番が指した位置と重なる。顔を覚えていなくても、足の置き方なら残るものがあるらしい。
ナディアは林務局の使いに、商会へ札の使用者を照会するよう告げた。同時に、その日の橋番の帳面と貸出簿を写す。原本は小屋へ戻す前に、橋番自身が二行を声に出して読み、写しの時刻を確かめた。
帰り道、尽は振り返った。橋番は割れた板を小屋の陰へ運んでいる。その日の夕方、谷へ入った箱六号は橋を戻って来なかった。瓶についてはまだ一行もない。ナディアはその日の夕刻に誰が商会の札を持っていたか、詰所へ戻るなり調べ始めた。




