第百六十九話 八日目の署名
食堂のスープは、ペペが匙を持ち上げてもまだ熱かった。尽はパンをちぎりながら、フィオナが鞄にしまった貸出票のことを考えていた。水漏れ。備品室に入るための鍵。借りた人の名前が読めない。
「イルマは、備品室に入ってないって言ったよな」
向かいのリゼッタが顔を上げる。フィオナは食事の手を止め、ソラヴェインで取った証言の写しを開いた。尽の質問は「瓶には触れましたか」。イルマの答えは、試験に使う分を受け取り、残りをトビアスへ返したことと、備品室へは入っていないことだった。
「あの試験の日の話をしていた」
フィオナが紙を指で押さえる。「八日後のことは、誰も聞いていない」
尽は黙ってパンをスープに浸した。イルマが嘘をついたと思った自分の早さが、少し恥ずかしい。それでも、後の夜に鍵を借りたのが彼女なら、直接聞いてみる必要がある。
ユーノは貸出票の理由欄を思い出したらしく、卓の下から身を乗り出した。
「水漏れなら修理の記録があるはずです。壁を開けた人とか」
「鍵を借りた署名も、保管官の帳面に転記されているかもしれない」
セレーネの言葉に、フィオナが頷く。夕食後、彼女はエウリスへ短い返書を書いた。原票の署名を別の記録と照らすこと。水漏れの場所と、鍵を借りた時刻を確かめること。最後にイルマの証言の該当部分を写し、八日後について改めて尋ねてほしいと添えた。
翌朝、研究棟では薬材の教師が残りの粉を使っていた。王国側と異なった発光時間は、試薬を同じ濃さに近づけると差が縮まった。教師は結果を記録したが、完全に揃ったとは書かなかった。セレーネは両方の表を机へ並べ、監査官宛てに送る封書に入れた。
「これで同じ瓶だと分かる?」
ペペが聞く。
「種類が合うところまで。残った粉も、もうわずかです」
教師が蓋をした小皿の底には、筆先で集めた白い粒が二、三個見えた。尽は口を閉じる。王国で借りた瓶が空の棚から消えた時期は、この粒を何度眺めても出てこない。
返書を出してから三日目、エウリスの便りが届いた。今度は食堂ではなく、授業の終わった教室にフィオナが皆を集めた。窓際の机にはまだ木片の削りくずが残っている。ペペが椅子を引き寄せると、脚が削りくずを巻き込んで小さく鳴った。
保管官の台帳には、貸出票を受け取った時に書いた氏名の転記があった。そこはかすれていない。借りたのは、イルマ・フェルン。
「水漏れの場所は?」
尽が聞く。フィオナは次の紙をめくった。備品室と実習室の間の廊下で、壁の上から水がにじんでいた。修理係の作業帳には、翌朝、割れた継ぎ目を取り替えたとある。誰が備品室の中を見たかは、そこにも載っていなかった。
イルマが鍵を借りた時刻は、授業が終わって間もない夕方。返したのは翌朝の鐘の前だった。エウリスは、修理係と保管官に話を聞いてから、監査官立会いのもとでイルマに原票を示すと書いている。尽たちは今の許可で王国へ戻ることはできない。
ペペが薄い写しを持ち上げ、前の晩には読めなかった署名をもう一度見た。照らし合わせれば、名前の最初の線は確かにイルマのものに見える。紙の向こうに、鏡板を拭いたあとの梯子を片づける彼女の姿が浮かんだ。あの人が八日後に備品室へ入ったのか。尽は質問を一行だけ書き足し、フィオナに渡した。
「鍵は、その夜ずっとあなたが持っていましたか」




