第百六十八話 予備鍵の夜
橋を渡りきると、監査官が馬車を降りた。王国の通行許可はここで終わる。彼は番所の机に帰着時刻を記し、尽たちへ一枚ずつ許可証の控えを返した。
「再入国する時は、新たな許可が要る」
尽は受け取った紙を折らずに鞄へ入れた。王国で出された捜索の命令は消えていない。今回の往復だけを認めた道が、背後で閉じた。
監査官は馬車の窓越しにフィオナへ告げた。
「精霊学院の鑑定結果は、封をしたまま私宛てに送ってください。エウリスからの報告はこちらで受けます」
「承知しました」
ナディアが馬を進める。監査官は番所に残り、二人の番兵と何か話し始めた。振り返っても、もう顔は見えない。
エルシリンの学院に着いたのは翌日の夕方だった。寮の前で待っていた学生がペペの荷物を持とうとしたが、セレーネの手元の小箱を見ると、先に扉を開けた。彼女は寮へ寄らず、フィオナと一緒に研究棟へ向かう。
「俺たちは?」
「立会いはできます。手は洗ってから」
ペペが自分の指を見た。昼に食べた木の実の殻が、爪の脇に挟まっている。リゼッタは一度部屋へ戻りたいと言ったが、結局四人とも研究棟の洗い場へ直行した。
試料を受け取ったのは薬材を扱う年配の教師だった。セレーネの前で封蝋を割り、包み紙の内側に残った白い粉を小皿へ移す。粉の半分は皿に入らず、筆の先にくっついた。教師は眉を寄せ、筆を替えてから作業を続けた。
尽たちは仕切りの外で待つ。小皿の下から青い灯を当て、試薬を一滴落とすと、粉の縁だけが鈍く光った。次に別の液を使い、教師は王立鑑定所の写しに書かれた二つの反応を順に確かめる。結果は同じだった。
「術式保護材の古い型ですね。少なくとも、この二つは合います」
教師は小皿を覆い、未使用の鏡板から採った比較片も調べた。そちらには反応がない。フィオナが記録を取る間、セレーネは時計を見て、最初の一滴から光が消えるまでの時間を測っていた。
「王国の記録より短い」
彼女の声で、尽が顔を上げる。二つ目の試薬を落としたあとの光は、王国の写しではしばらく残ったとある。教師は使った液の濃さを確かめ、王国側とは調べ方が違うと説明した。試料も同じ粉を二分しただけで、まったく同じ粒ではない。
「時間の差だけを材料の差として扱わないでください。こちらの手順で何度か比べます」
尽は頷いた。確かめたことは増えた。光が早く消えた理由は、今ここでは分からない。
研究棟を出ると、食堂の鐘が二度鳴った。ペペがようやく腹を押さえる。寮の入口には、先ほどの学生が今度は封筒を持って立っていた。ソラヴェインからフィオナ宛ての早便で、午前中に届いたという。
差出人はエウリスだった。フィオナは食堂の席に着く前に封を切る。本文は短く、後ろに学院の保管官が持つ予備鍵の貸出票の写しがついていた。
研究会が第七灯を試した八日後の日付で、備品室の予備鍵が保管官の鍵箱から貸し出されている。貸出票の理由欄は「水漏れ確認」。返却は翌朝。借りた者の署名はあるが、フィオナは読めなかった。かすれた字をエウリスも判読できず、原票を監査官と一緒に調べていると記されていた。
「瓶を戻したのは試験の日だったよな」
尽が尋ねると、フィオナは頷く。八日後の時点で瓶が棚にあったかどうかを示す記録はない。予備鍵を使った人が瓶に触れたとも、まだ言えない。それでも、これまで名前の挙がらなかった出入りが一つ見つかった。
ペペが貸出票の写しを卓へ寄せ、薄い署名を傾けて読む。最初の文字は見えそうで見えない。食堂の給仕が皿を運んできたので、彼は慌てて紙の上に置いた指をどけた。温かいスープの湯気が上がる前に、フィオナは写しを鞄へしまった。




